災害後の都市現象という観点から全国の闇市跡地を踏査する
初田香成(工学院大学建築学部建築デザイン学科・准教授*)

インタビューアー 笠井賢紀(龍谷大学)、饗庭伸(首都大学東京)、真鍋陸太郎(東京大学)
この原稿はネット・インタビューを行った原稿をインタビューイー、インタビューアーが加筆するというやりとりを経て作成しました
*所属などはインタビュー時のものです

まずは初田さんの研究フィールドとキャリアをご紹介ください。

専門は建築史、なかでも都市史を専攻しています。都市史は文系から理系にまでまたがる分野ですが、建築史の立場から都市史を研究しています。大学入学時は文系で日本史か地理を学ぼうと考えていましたが、進路変更して工学部で都市計画を学びました。卒業論文では日本もしくはアジアの盛り場に特有の建築類型と考えられる雑居ビルについて、フィールドワークと歴史研究を行いました。新宿・歌舞伎町一丁目の全てのビルを対象に平面図とテナントの業種を採集して分析するとともに、その発生過程を明らかにしようとしたものです。修士論文では東京都心部の闇市とその後の再開発過程を研究しました。とくに新橋西口の闇市と、それを東京都が再開発してできた「ニュー新橋ビル」を取り上げ、ビルの内部に闇市的な空間が再生産されていく経緯を調べました。本来は不法占拠だったはずの闇市がいつのまにか定着して存続していく過程が面白く、闇市を大都市流入者が定着する際のインキュベーターとして捉えようとしました。今から思うといずれも特徴的な都市建築から都市の歴史に迫ろうとしたものでした(ここでの都市建築とはある時代、ある都市に似た形式を以て多数現われるビルディングタイプと定義しています)。博士課程からはこのような問題関心を深めようと、建築史の研究室に入りました。研究室ではフィールド調査と実証研究を通じて、住宅や建築を個々の作品としてではなく都市を構成するものとして見る視線を学びました。博士論文では雑居ビルや闇市を作りあげてきた戦後日本の都市について、現在の都市計画・都市再開発が確立するまで過程での様々な試みや、その背景にあった大都市流入者の動向を明らかにしようとしました。その後、「都市空間の持続再生学」という都市・建築・土木の分野融合研究拠点の特任助教、建築学科の助教、プリンストン大学の客員研究員などを経て、現在の職場に着任しました。

初田香成氏

初田香成氏

生活学プロジェクトに採択され、生活学カフェで発表された「全国の闇市を歩く」についてお伺いします。

博士論文を書き終えた後、社会学や建築史、文学などの若手研究者と一緒に研究会を結成し、学際的な観点から闇市に関する研究を行い、『盛り場はヤミ市から生まれた』(青弓社、2013年、同増補版、2016年)としてまとめました。さらにサントリー文化財団の人文科学、社会科学に関する学際的グループ研究助成を受けて、全国の自治体史を総覧して、闇市の全国的な成立・展開過程とその多様性をまとめました(初田香成・村上しほり・石榑督和「第二次世界大戦後の闇市の全国的な成立・展開と行政の関与: 自治体史の闇市に関する記述の全国調査」『日本建築学会計画系論文集』2017年3月号)。全国100都市を対象に闇市の有無を調べたのですが、このうち99都市に闇市が存在したことが明らかになりました。私の想定をはるかに超える数で、また自治体により闇市の組織主体や闇市への対応も大きく異なるなど、従来以上に多様な姿が浮かび上がってきています。以上の成果を踏まえて、2016年度に「生活学プロジェクト」に採択いただいて進めているのが現在の研究です。全国の闇市の現存例および跡地を踏査することで、闇市とその後の実態を網羅的に把握しようとしています。

研究のきっかけや問題関心、学術的位置づけはどういったものでしょうか?

私は東京の中央線沿線で生まれ育ったので、高校時代に通っていた新宿近くの塾へ行く途中に「思い出横丁」があったり、吉祥寺には「ハモニカ横丁」があったりして、身近なところに闇市由来の空間が存在していました。それらを不思議な空間だなぁと思っていたことが研究を始めた直接のきっかけです。さらに大学入学後に海外をあちこち旅行するなかで、ごちゃごちゃした屋台が集まるような空間を魅力的に感じ、現在は一見清潔になってしまったように見える日本でも実は高度度経済成長期以前に同様の空間が多数存在していたことに気がついたのです。
建築史分野の都市論や、日本史分野の都市史研究の影響も大きいです。しかし、従来の研究では戦後の都市が具体的に扱われることはほとんどなく、戦後は経済成長の陰で伝統的な景観や社会が破壊された時代であるというような見方がなされてきたように思います。しかし、学生時代には昭和の町並みを模した「ラーメン博物館」ができるなど、戦後の都市を現在のアイデンティティを形作った時代として再評価できるのではないかと思い始めました。
闇市についての主要な先行研究として、生活学会の副会長もつとめられた故松平誠先生による研究があります。松平先生は暗いイメージの強かった闇市を「ヤミ市」と表記し直し、「本音の世界の砦」、「庶民生活のエネルギーの源泉」などと述べて、評価を大きく転換しました。ただ「ヤミ市」を祭や聖域に通じる空間と位置づけるなど、東京都心部の一部の特徴的な事例に基づき闇市を終戦直後に特有な非日常の空間として捉えがちでした。しかし、大都市の盛り場のような闇市ばかりではなく、東京郊外や地方都市の闇市には生活雑貨を扱うような、より日常的で生活に根付いた闇市の姿も見えてきています。
このような全国の多様な闇市の姿をふまえて、本研究では闇市を災害を契機に潜在していた都市の基層が発現した、都市のある種の普遍的活動として位置づけなおそうとしています。ここでの都市の基層とは、特に高度成長以降、表層から失われたものの通奏低音として都市を規定してきた伝統的要素と定義しています。簡単に言えば、都市がそれまで持っていた履歴が戦後の闇市には端的に表れたと考えています。
例えば、闇市の形態は各都市の戦前からの市場や露店の形態に大きく規定されています。那覇ではマチグヮーと呼ばれる戦前からの露店市場があり、それが闇市にも引き継がれています。闇市は川の上や神社の境内にできることも多いのですが、これは日本の歴史的な市場の立地とも共通しています。災害後にオープンスペースを仮設的に占拠して商売をする行為は、関東大震災の後などにも見られますし、東日本大震災後の仮設商店街にもある意味で似た特徴が見出せるでしょう。

那覇の第一牧志公設市場

那覇の第一牧志公設市場

闇市を組織した主体として、玄人露店商(テキヤ)の存在があります。彼らは伝統的な都市下層社会の組織で、戦前から警察・行政と関係を築いていたことが、戦後の闇市の急速な出現を可能としました。また、闇市のなかには在日外国人や引揚者により組織されたものもあり、当時の都市社会を象徴する多様な人々により構成されていました。
闇市という言葉は「闇市場」を縮めたもので、辞書的には「統制経済下に公的には禁止された流通経路を経た闇物資を扱う市場」として定義することができます。ただ、闇市という呼称は基本的には終戦直後にのみ用いられ、空間的な実態を持つ市場(いちば)の意味で使用されることが多く、私もそのような意味で用いています。具体的な建築形態としては三段階程度あり、最初は露店で地面にムシロをひくだけのものだったのが、組織化が進み縁日のような露店市場となり、一部はマーケットと呼ばれる長屋型の建築を形成していきます。
闇市という言葉の起源について、まだ仮説ではありますが、私は海外のブラックマーケットを翻訳した実は新しい用語なのではないかと考えています。当時の新聞記事を見ると、第二次世界大戦の最中にドイツや中国など外国の事例にまず「闇市」という言葉が使われており、後から国内のものを指すようになったのではないかと想定しています。だとすれば、闇市は第二次世界大戦における総力戦体制のもと、戦時中の統制経済の進展と同期して誕生し、世界中で広まっていった言葉と言えるかもしれません。
なお私は基本的にカタカナ表記の「ヤミ市」ではなく、漢字表記の「闇市」を使用しています。「ヤミ市」という表記は松平先生が暗いイメージを転換させようとして定着させたものではないかと考えており、それからは距離を保ちたいと考えているためです。

これまでの成果は?

闇市については博士論文をもとに出版した『都市の戦後 雑踏のなかの都市計画と建築』(東京大学出版会、2011年)という本で二章を割いて述べ、その後に既に述べたように共同研究の成果を『盛り場はヤミ市から生まれた』という本にまとめています。生活学プロジェクトに採択されて以後は、これまでに新宿・思い出横丁の街区を実測したのを始め、那覇や小倉・門司・下関・福岡、小樽・函館、八女などの闇市跡地を調査してきました。

函館・中島廉売市場の露店

函館・中島廉売市場の露店

この結果、各地で多様に存続してきた闇市の様子が明らかになってきています。そうすると闇市はもはや通常の市場・露店に限りなく近づいていくというのが現在考えていることです。また、闇市のその後をたどっていくと、大半が消滅(不可視化)している一方で、一部には吉祥寺のハモニカ横丁のようにテーマパーク化が進んでいる事例や、地方では若者が安価に創業できるようなスペースになっているものもあります。都市のインキュベーターとしての闇市という表現をしましたが、現在の発展途上国でも大都市には露店街があったり、都市の周囲に不法占拠のスクウォッター地区が存在して、地方から出て来た人が大都市に居着くための場所となっています。これらは闇市にも通じる仮設的な占拠であり、普遍的な都市現象だと考えています。
以上のような観点から、闇市をまず都市の現象として捉え直し、その多様性と戦前からの連続性を把握したうえで、改めて闇市によって戦後に都市がどのように変わったのかを考察したいと思っています。

生活学とはどのような関係になるでしょうか?

既に述べたように闇市については本学会副会長をつとめられた松平先生による先行研究があります。また、災害後に現れたバラック建築という点からは、本学会の初代会長である今和次郎先生が行った、関東大震災後のバラックに関する研究にも通じるものがあると勝手に考えています。
また、本学会にも通底する具体的な研究手法として、私は建築という「モノ」から闇市、ひいては社会を見ることを心掛けています。このような観点から闇市を見ると、例えば闇市には二つの類型が浮かび上がってきます。間口をそろえて建設されたものと、間口がバラバラのものが集まっているものです。前者はある主体が計画的に作ったのに対し、後者は人々が寄せ集まる過程で作りあげていったものと考えられ、開発の経緯が全く違うことを示しています。

これからのご予定について教えて下さい。

これからも引き続き全国の闇市の事例を踏査していこうと考えています。日本だけでなく、韓国・釜山の闇市に起源をもつ市場も調査しており、台湾などを含めた東アジア諸国との比較も行えないかと考えています。
また、闇市とは対照的ですが、都市建築史研究の一環として、最近は戦後日本の持ち家の普及過程についても研究しています。日本の都市居住は戦前まで民営借家が中心でしたが、高度経済成長期以降に郊外で大量の戸建て住宅が開発されていきます。それは単に持家が増加しただけでなく、人々の主流が持家所有に価値があると判断しそれを目指す社会体制であり、アメリカ郊外の都市居住を模範としながらも日本独自の特徴を有するに至っています。消えていく仮設建築の闇市と、増えていく恒久建築の二つの流れを知ると戦後日本の都市建築のダイナミズムが捉えられるのではないかと考えています。

釜山の国際市場

釜山の国際市場

最後に、生活学会会員や、広く社会に対してアピールしたいことがあればお願いします。

闇市の研究をどこで発表しようかと考えた時に日本生活学会に行き当たりました。闇市は学際的に研究することで、より深くまた楽しく研究できる対象なので、様々な分野の本会会員の方からご意見をうかがったり、協働して研究を続けていければと思っています。ご興味のある方はぜひご連絡ください。

ありがとうございました。

(インタビュー実施日 2018年7月12日)

インタビューを終えて(インタビュアーの一言)

インタビューの中でも特に「闇市を都市のある種の普遍的活動として位置づけなおそうとしている」というところにおもしろさを感じました。そのような観点で、都市だけではなく私たちの生活の基層にはいったい何を位置づけられるのか、初田さんの研究をヒントに私たちも探究の一歩が踏み出せそうです。(笠井)

今和次郎から連なるバラック〜ヤミ市〜闇市研究は、生活学が常に立ち返る原点のような研究なのだということに気づかされました。大正、昭和、平成をへて、闇市そのもの=原点も変化をしたのだろうし、そしてそれぞれの時代において、原点を参照する態度、意味は変化しているのでしょう。今の時代の闇市はフリマやメルカリのようなところにもあるのかもしれないし、それは趣味が都市をつくるということなのかもしれないなあ、ということを考えました。(饗庭)

調査対象としたほぼ全ての都市に闇市が存在したということに大変驚きました。人々の生活には少なからずモノが必要で、それらを人々の元へと届けていたのが闇市で、どこの都市にも必要不可欠なものということなのでしょう。本稿にあるように初田さんの卒業論文は新宿歌舞伎町のフィールドワークによるものでした。実はその卒論には本論と同じぐらいの分厚い(全歌舞伎町)「雑居ビルカタログ」なるものが付録でついていました。雑居ビルや闇市といった人間の本質があらわになるような都市空間を、我慢強くしぶとく調査して、そこでの人々の様子を空間と関連づけて明らかにしていくのが初田さんの真骨頂ではないでしょうか。(真鍋)

「日本生活学会の100人」は、日本生活学会の論文発表者、学会賞受賞者、生活学プロジェクトの採択者から、若手会員を中心に学会員の興味深い活動や思考を掘り起こし、インタビュー形式の記事としたものです。