生活学の懐の中で鉱業社会の持続性を文理融合研究として挑戦
姉崎正治氏(産業技術短期大学機械工学科・特任教授*)

インタビューアー 真鍋陸太郎(東京大学)、饗庭伸(首都大学東京)
この原稿はスカイプでインタビューを行った原稿をインタビューイー、インタビューアーが加筆するというやりとりを経て作成しました
*所属などはインタビュー時のものです

博士論文賞の受賞おめでとうございます。姉崎さんは70代で博士号を取られたという異色のキャリアをお持ちですが、まずはご自身の研究フィールドとキャリアをご紹介ください。

今年の6月で75歳になりました。生活学会の100人のVol.6の小関さんが「大人ポスドク」と自称されていましたが、私自身は「シルバー・ポスドク」と言っています。
私のキャリアは、60歳で住友金属工業での技術研究職を定年退職するまでの第1期と、その後今日までの第2期に分けられます。第2期では過去をゼロクリアーして、大阪外国語大学に入学し、大阪大学との合併を経て外国語学部でスペイン語やラテンアメリカ史分野で学部と修士課程を終え、博士課程に進学しました。以上の二つの経験が人間環境論やサスティナビリティ学として融合して大阪大学人間科学研究科での博士論文に集約されました。

姉崎正治氏(2015年大阪大学秋季学位授与式にて)

姉崎正治氏(2015年大阪大学秋季学位授与式にて)

まず第1期のことをお話しします。中学を卒業した後に住友金属工業に就職し、社内の教習所で3年間技能教育を受けた後、22歳から産業技術短期大学の前身である鉄鋼短期大学で2年間、さらに24歳から京都大学大学院の研究生として2年間、鉄冶金学の基礎を学びました。その後高度成長期に大型の製鋼プロセス開発をテーマに研究開発を担当し、43歳の時に「転炉における複合吹錬法の開発に関する研究」のテーマで東京大学の工学博士を取得しています。金属工学や冶金工学が私の専門領域でしたが、ものづくり技能に裏打ちされた技術が身についていたとように思います。
第2期のきっかけとなったのは、41歳のときのブラジルへの集団旅行です。その時はポルトガル語を勉強しましたが、現地の駐在員からスペイン語の方が有用だということを聞かされスペイン語に転換して独学で勉強しました。その後グアテマラへ留学したこともありますし、定年後にはメキシコに半年間居住したこともあります。定年後のことは50歳頃から考えはじめ、会社を定年退職した後にゼロクリアーし受験勉強をして、62歳で大阪外国語大学へ社会人入学しスペイン語を勉強しました。大学には学部の1回生から通っていたのですが、3回生の時にラテンアメリカ史の染田秀藤先生の講義の中で、スペイン植民地ペルー副王領のポトシ銀山での水銀を用いた製錬法の話に出会いました。その時にポトシ銀山の製錬法と第1期の冶金工学の経験が結びつき、ポトシ銀山について卒業論文として取り組むことになりました。大阪外国語大学が大阪大学と合併したこともあり、修士課程は大阪大学大学院に進み、そこでは15〜16世紀のペルーの銀鉱業と第5代副王トレドの事業についての修士論文を書きました。

1982年ブラジル集団旅行、中央黒メガネが姉崎氏

1982年ブラジル集団旅行、中央黒メガネが姉崎氏

その後博士課程に進学し、人間科学研究科の三好恵真子先生の研究室に所属し研究指導を受けたわけです。博士研究では第1期と第2期のそれぞれの経験が融合し、金・銀・水銀を総合して考えるものとなっていて、工学的論考に加えて、鉱業を取り巻く地域社会の環境問題や生存問題に拡大していく中で、個人の中での文理融合研究へと進展していくのですが、人間環境論、サスティナビリティ論を基盤学術と捉えていく段階で三好先生からは生活学への誘いはもとより、適切かつ甚大なご指導を受けたことが記憶として残っております。

博士論文賞を受賞された「貴金属鉱業における金、銀、水銀に関する資源・環境問題の歴史的射程から未来へ連動する文理融合研究」はどのような研究でしょうか?

鉱山の鉱山たる価値は資源が尽きると終わってしまうものですが、鉱山を中心とした社会は資源が終わっても生き延びざるを得ないものです。このことからも鉱山地域社会の持続可能性(サスティナビリティ)に関心を持つことになりました。博士論文では、金銀鉱山の社会に関する持続可能性(サスティナビリティ)概念の適用と、都市鉱山の問題に対して循環型社会の在り方について未来に繋がる考え方を持ち込んだものです。具体的には種類の違う金・銀・水銀に関して基底が共通する類似問題を抽出して議論しています。その一つは、環境省への応募を機会に、アフリカでの水銀を使って金を取るという小規模金採掘(ASGM; Artisanal Small-scale and Gold Mining)に関わっていたのですが、それは、水銀の採取から輸出入、使用に至るまで国際的に規制するルールとして水銀条約(水銀に関する水俣条約)が2013年に結ばれたこともあって、その後世界中の金採掘と地域社会がどうあるべきかを考えました。二つ目の事例は都市鉱山を対象としています。「都市鉱山」の開発は現在の循環型社会の大きな課題となっています。そこでは独自に携帯電話の破砕方法で貴金属を取り出す技術および回収システムを開発しました。当初金と銀は、水銀を使って簡単に取り出すことを考えておりましたが、水銀条約の締結もあって新しい回収システムの開発に挑戦したということになります。

2013年アフリカタンザニアの金採掘現場

2013年アフリカタンザニアの金採掘現場

その研究にはどのようなきっかけがあったのでしょうか?

私は新潟市出身です。1956年にメチル水銀中毒である水俣病が公式に確認されましたが、その後、新潟の阿賀野川流域で語られていた奇病も「新潟水俣病」であったということが確認されました。私は、子供の頃、阿賀野川でよくハゼ釣りをして、釣ったハゼを食べていたのですが、この頃すでに水銀との関わりがあったわけです。また、中学卒業後の研究職場で、水銀を使用した分析方法「水銀滴下式水素分析法」の作業中に、事故で水銀を頭から被ってしまったことがありました。その時は水銀の害について知らなかったのですが、周囲の人にすぐにプールに投げ込まれまれ、そこで、水銀中毒について教えられ、水銀の公害性や有毒性について気付かされました。その後の外語大学での出会いを含めますと、私の人生の中で水銀は何度も顔を出し、水銀に関わる人生であったといってもよいように思います。
前述したような体験と冶金工学の土壌があって、染田先生の講義でポトシ銀山での水銀を使用した貴金属抽出の方法を聞いた際に、衝撃的な関心を持つに至ったわけです。特に興味を持った点は、ポトシ銀山を含め化学記号もない時代に「水銀アマルガム製錬法」を大々的に実施し、その処方が書籍として記述されていたことです。私自身も簡単な水銀アマルガム製錬の実験をしてみましたが、水銀は金や銀を近づけると瞬間的に吸収反応を起こして合金(アマルガム)化することを観察しています。その合金を5〜600度に熱して水銀を蒸発させれば金や銀の塊を抽出することが出来ます。このように水銀アマルガム製錬法は簡単な上に非常に安価に金、銀を得ることが出来る方法なので、近世から現代にかけて広く世界的に普及しました。水銀の有害性についてはスペインの支配者は知っていたので、作業者の水銀の過度の吸引を規制する法律を出しましたが実施は疑わしく、健康被害が甚大であったことが報告されています。

Arzansの「ポトシ銀山史」(1736)と1577年当時の水銀アマルガム製錬工場

Arzansの「ポトシ銀山史」(1736)と1577年当時の水銀アマルガム製錬工場

このような経緯で、金や銀の貴金属鉱業を論じる中で水銀が重要な対象になっているきっかけだと思います。博士研究以降今日も小規模金採掘の問題は中国へ広がって継続しています。

研究の成果はいかがですか?

博士論文では、水銀を主軸として俯瞰的な文理融合研究にたどり着きましたが、社会への還元はまだ実現できていません。主な試行として2件ご紹介します。まず、水銀を使わないで金を取るという方法について、アフリカをフィールドとして2014年に環境省へ提案しましたが採用されませんでした。また、都市鉱山(廃棄携帯電話)からの有用金属の抽出方法として、独自の破砕方法を開発し、併せて顧客接近型破砕方式という回収システムを提起しました。これは所有者のところへ開発した破砕機を持って行き、その場で破砕して回収するというものです。この方式では、目の前で破砕してくれることで、携帯電話の個人情報漏洩防止への安心につながって回収率が上がりました。社会実現のチャンスは2020年の東京オリンピック・パラリンピックの金銀銅メダルの材料として都市鉱山から得た金銀銅を使用することを環境省が打ち出した時にあり、この方法がもっと広げられるものと期待していましたが、回収の透明性、メダルの品質保証等の観点から厳格な回収方式になり、自由に参加できなくなってしまいました。したがって、こちらも社会へ還元できていません。

2013年阪大豊中キャンパスで行った携帯電話回収イベント

2013年阪大豊中キャンパスで行った携帯電話回収イベント

「文理融合研究」という言葉にはどういう意味を込めていますか?

文理融合を強く意識したのは博士課程に入ってからです。ポトシ銀山の話や環境問題は工学として扱いやすいのですが、鉱害による被害や鉱山地域社会の問題は工学だけでは扱えないことから必然的に文理融合研究へ展開していきました。現在までの学問体系では、ある程度研究実績を持ち、ディシプリンを身につけてしまうと自ら「文理融合」を名乗るのは難しいように思います。その点、学生の時代から文理融合研究を目指して研究を立ち上げれば比較的やりやすいのではないかと思っています。私の研究は、三好先生が「個人レベルでの文理融合」研究を目指しておられた中でご指導を頂けたことが幸いした1つの成果ではないでしょうか。

生活学との関係はいかがでしょうか?

私は、2015年1月に生活学会に入会しました。まだ入会して間もないので、生活学とは何ものかということは今のところ自信を持って言うことができません。
生活学会の創設当時の先生方の論文をいくつか読ませて頂いた程度での個人的な解釈として、「人間が生きていく、生活していく過程の事物全体にわたる学問」ではないかと理解しております。つまり人間が生きていくための総合学ではないかと。入会者は、様々なディシプリンを持って入会しますが、結果的には人間の総合的な学問の場で活躍できるようになっているのではないでしょうか。そこにどのような学理・学術を持ち込むかが問われれるのではないかと思います。
簡単で低コストの水銀アマルガム法による貴金属の抽出という行為は、人間の欲望と深く関係していて、簡単に現物の金塊を手に取ることが出来るということから、貧困地帯の人々が生活を維持するためにやらざるを得ないものになっています。これは生活学会が目指していることと合致していて、生活学の派生的な分野になるのではないかと思っています。
生活学が総合学であり、研究対象が「人間が関わる事物」であることから、私の研究もその広くて深い懐の中で評価されたのではないかと考えております。博士論文賞受賞の理由の1つとして、「文理融合研究として生活学の一翼を担えた」と評価して頂いたことに深い意義を覚えました。生活学会は約40年の歴史の中でのジャンルの拡大・変化があって、生活学の懐が広くなってきているわけですが、私の研究はその懐の中に入ることができたのではないかという気持ちです。

これからのご予定について教えて下さい

75歳になった今2つの方向で研究を続けています。
1つは、産業技術短期大学の特任教授として研究する立場です。産業技術短期大学は、1962年に創立した鉄鋼短期大学の名称が1988年に変わったもので、私の母校にあたります。更に1974年に短期大学に併設して人材開発センターができ、現場人の通信教育や研修会を行っていますが、私はその通信教育の添削指導員も兼ねています。日本の鉄鋼業は、高度成長期以降、1億トン以上の粗鋼生産量をずっと維持しています。これは日本の鉄鋼業界と各製鉄会社が作って来た(そして私も受けていた)教育システムも一翼を担ってきたのですが、母校に帰任してみて、この膨大な教育システムの存在に関しては意外にも外部には知られていないということに気づきました。鉄鋼業界では日本鉄鋼協会や日本鉄鋼連盟が中心になって技術教育や技能教育を実践していますし、鉄鋼短期大学や人材開発センターを立ち上げて現場力を高める教育を継続していることは特記すべきことと思います。このような活動は、業界内で戦前まで含めると100年以上も行ってきたことなのです。今の思いは、日本の鉄鋼業における技術・技能教育や人材育成について歴史的に明らかにし、そのことが50年近くも粗鋼生産を1億トン以上長期に維持することに寄与してきた姿を描き出してみようとの考えでおります。

2015 年秋、鉄鋼短期大学 同窓会での依頼講演の様子

2015 年秋、旧鉄鋼短期大学 同窓会での依頼講演の様子

もう1つは、三好先生の研究課題の研究分担者としての役割で、現在中国のPM2.5問題に対して学際的に取り組んでいます。特に私はPM2.5の組成についての研究の一部を分担しています。あまり注目されていませんが、PM2.5には水銀がかなり含まれています。中国は水銀鉱山が多く、世界最大の水銀使用国でもあります。また水銀は、石炭に含まれていて、石炭火力発電や石炭ボイラーの燃焼時に水銀蒸気を大量に大気中に排出することになり、これが中国の水銀排出問題の主要な部分を占めています。大気中に排出された水銀蒸気はPM2.5と同様に越境汚染に関係しています。このことは日本の問題でもあり、解決に向けて共同研究に参加させてもらっております。

生活学会会員や、広く社会に対してアピールしたいことがあればお願いします。

若い方向けのメッセージではなく、シニアの方々へのメッセージがあります。そのことが生活学会に関係すると思いますので、簡単にご紹介いたします。
政府が9月11日に『人生100年時代構想会議』を立ち上げたように、大量の超高齢者が生活する時代となってきています。高齢者は今までは、どちらかというと老人問題などの研究対象(被研究者)であるとか、被介護者などの客体的存在でしたが、昨今は書店では「主張する高齢者」の書籍が賑わしております。書籍に限らず色々な分野で活躍している高齢者もたくさんおられますが、現時点の高齢者全体から見ればごく少数であります。しかしこのような老人を「自立した高齢者」ということにして、後続する団塊世代の高齢者層の先駆けと位置づけ、「自立する老人学」(仮称)というような学問を形成することが出来ないかどうか考えてみる必要があると思います。私よりも上の年齢のことは自分では予想付きませんが、書籍での主張を含めて、自立を図ろうとする老人が今後増えてくることが予想される今、話題になるか否かは問わず、年齢別各層にあって色々な分野で活躍している先駆けの事例を研究する「自立する老人学」を、生活学会の中でその門戸が開ければ、新しい会員の活動の場にできるのではないでしょうか。
私自身について言えば、定年後に大学に入り博士号を取ったことは一つの先駆けの事例です。後続する高齢者の生き方や選択肢に対する、一つの道しるべになればと思っております。

ありがとうございました。

(インタビュー実施日 2017年10月10日)

インタビューを終えて(インタビュアーの一言)

工学者としての経験と人文学がこのように結びつくのか、ということが新鮮な驚きでした。二つの経験の足し算から、豊かな学問世界が広がっていることと、鋭い実用技術が生み出されていることも素晴らしいです。おそらく各地にたくさんいらっしゃる、日本の成長を支えた技術者の可能性にワクワクしました。(饗庭)

姉崎さんの興味関心が技術そのものからその技術が社会・人間へ影響を及ぼす課題へと移っていった様子は、社会の関心や大切とするものの変化そのもののように感じました。技術者として工学博士を取得した技術者が、人間との関係を論ずる分野(人間科学)の博士号まで取得するという経歴は脱帽する限りです。奢ることなかれ、日々研鑽、肝に銘じて見習っていきます。(真鍋)

「日本生活学会の100人」は、日本生活学会の論文発表者、学会賞受賞者、生活学プロジェクトの採択者から、若手会員を中心に学会員の興味深い活動や思考を掘り起こし、インタビュー形式の記事としたものです。

姉崎正治氏は2021年5月に78歳で逝去されました。インタビュー時の柔らかい笑顔を今でも思い出します。ここに謹んで哀悼の意を表します。