環境の変化の中で、死と向き合うこと
杉山由里子氏(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 研究員)
インタビュアー:土居浩(ものつくり大学)・大橋香奈(東京経済大学)
*所属などはインタビュー時のものです
日本生活学会研究論文賞の受賞、あらためておめでとうございます。それでは研究フィールドの紹介も兼ねて、これまでの研究歴をお聞かせください。
この春2023年3月のことですが、京都大学の大学院アジア・アフリカ地域研究科に博論を提出して卒業しました。現在はポスドクの研究員として、引き続き所属しています。 私の専門分野としては、地域研究と文化人類学、そして社会学・生活学・死生学にまたがる研究領域になります。大きな研究テーマとしては、「環境の変化の中で、人々は死とどのように向き合っているのか」が関心の中心です。
調査フィールドはアフリカ南部に位置するボツワナで、狩猟採集民として知られる「ブッシュマン」を対象にしています。フィールドでは、彼らが暮らしているすぐ隣にテントを張って、できるだけ長く時間を共有しながら調査をすることを大切にしてきました【写真1】。2015年から現地調査を断続的ですが続けています。「ブッシュマン」の名称は映画タイトルとしても有名ですし、その映画の主人公であるニカウさんは来日したこともあります(もちろん私自身は当時のことを直接に知りませんが)から、アフリカの民族の中では日本で知られている名称だと思います。アフリカでフィールド調査をする以前、学部学生の時は日本で調査をしていたので、いまだに家族(とくに親ですね)には、そんな遠くへ行かないでくれとか、せめてネットが通じるところで調査してくれとか言われてしまいます(苦笑)。そんな風に家族から言われつつも、2015年から累計すると、ボツワナ大学への留学期間もありますから、3年半はボツワナに滞在していると思います。
そもそも「ブッシュマン(Bushman)」は総称で、親族グループとしてはグイ(Gǀui)とかガナ(Gǁana)とか様々な呼称があるのですが、私が論文に書く時は基本的に「ブッシュマン」と呼んでます。彼ら自身が自称としている語彙はブッシュを意味するので、私は「ブッシュで生きる人々」という意味合いで使います。とはいえボツワナで「バサロア(Basarwa)」と呼称する時には、差別的意味合いが含まれているので、民族の呼称には基本的配慮が不可欠ですね。
先ほど、私の大きな研究テーマとして「環境の変化の中で人々は死とどのように向き合っているのか」と紹介しましたが、これは「環境の変化の中で」と「人々は死とどのように向き合うか」の二つの側面が合わさっていることが、非常に重要なのです。まず後半の「人々は死とどのように向き合うか」ですが、これは私の幼少期体験から来てまして、小学生の時に「附属池田小学校事件」のあの場にいたものですから、なんとなく心の中で、あの死とどう向き合えばいいのだろうという思いを、ずっと抱えてはいました。で、学部時代から「人々は死とどのように向き合うか」をテーマにしているのですが、前半の「環境の変化の中で」は、卒論を書いている中で、この側面が必要だと気付きました。
学部の卒論では、供養塔を研究しました。殺生を伴う生産地に見られる習俗で、北海道ではニシンの供養塔だとか、和歌山でクジラの供養塔だとかが、比較的知られているかと思います。私は蚕を育てる養蚕業と繭から糸を紡ぐ製糸業、これらを合わせて蚕糸業と呼びますが、それらの生産地における供養塔を調べました。兵庫県養父市の養蚕農家へフィールド調査に行ったり、群馬県安中市の製糸工場へ調査に行きました。そこで分かったことは、供養塔のある生産地の方が圧倒的に少ないという事実です。
供養塔研究は、これまでもたくさん積み重ねられてきましたが、研究の中心的な(むしろありがちな)ストーリーでは、「供養塔は日本のアニミズム的世界観の反映だ」「供養塔は日本人と生き物との共生思想を体現している」のように、日本人の本質的思想の現れとして、供養塔が捉えられていました。けれども私が実際に観察したのは、淡々と死が処理されている現場でした。製糸工場が代表的ですけど、繭玉を茹でて生糸を取り出したら、残った蛹を処理するわけです。その、一番汚れるし臭いの厳しい作業は、外国人労働者が担うことになる。供養塔のある工場に勤務している日本人も、普段、蚕の命や供養は意識しないと言う。そんな現場を見てしまうと、供養塔をめぐる「生き物の命を大切にする日本人」という議論が、なんか違うと根本的な疑問を持ってしまったわけです。元養蚕農家のおばあちゃん(当時87歳)へのインタビューでは、かつては馬小屋と併設して蚕を飼うのが一般的で、(死んだ蚕や蛹・蚕の糞・食べ残しの桑など)養蚕の中で捨てるところは一つもなかったと言う彼女に、「なぜここには供養塔はないのですか?」と聞くことがすごく無意味に思えました。
供養塔がある生産地の方が圧倒的に少ないだけでなく、供養塔がある生産地にしても近年に建立されたものが圧倒的に多いことが分かりました【写真2】。さらにインタビューを重ねると、それは蚕糸業の衰退と深く関わっていました。かつて日の出の勢いだった製糸工場が、現状では激減していることは、蚕(蛹)の命を扱う人が減ったことを意味します。ごく限られた人たちによって殺生が担われるようになったこと、そして近年の命を大切にするムーブメント(ペット供養などもその一環でしょう)の中で、供養塔が建てられていったことが分かりました。この学部卒論での経験で、もとからの関心である「人が死とどう向き合うか」は、ものすごく「環境の変化」に拘っていることに気が付きました。このような経緯を経て、「環境の変化」と「死との向き合い方」これらふたつをかけ合わせたテーマが私の中で確立しました。
現在はブッシュマンにおける環境の変化の中で、人々が死とどう向き合うのかを観察しています。冒頭でブッシュマンを「狩猟採集民」と紹介したとおり、かつてブッシュマンは、食用植物や野生動物の分布に合わせ、少人数で移動しながら生活をしていました【写真3】。そこへボツワナ政府が1979年に近代化政策を実施し、ブッシュマンを政府が作った村に定住させることになります【写真4】。端的にいえば、野蛮な暮らしをやめて一つの場所に定住して近代的な生活をせよ、との国民国家政策ですね。これがブッシュマンにおける環境の劇的な変化です。生業も大きく変化して、狩猟採集は基本的に禁止されました。政府からの配給に、ブッシュマンは頼らざるを得ない状況になっています。このような生活の変化の中で、ブッシュマンの死の場面も、大きく変化しています。かつてであれば、現在の日本人の常識だとちょっと想像しづらいくらいに簡単な埋葬で済ませていたところを、今では日本人でも容易に想像できるような葬儀がされるようになりました。
ブッシュマンは現在、定住生活なのですね。
かつて狩猟採集で暮らしていたブッシュマン【写真5】も、現在では定住し、基本は国家からの配給で暮らしています【写真6】。ですが、なぜかタンパク源は配給されていないのですよ。国家が配給するのは、お米とか砂糖とかモロコシ粉とかなので、そもそも制度としてどうかと思いますけども。なので狩猟採集は、禁止されているとはいえ、細々と続いている部分もあって、キリンやリクガメ、ゲムズボックなどの肉を食べてますね。
なお1979年はブッシュマンの生活域内に作られた村(定住地)への定住促進でしたが、次いで1997年には生活圏を出た場所に政府が村(再定住地)を作って、そちらへ移住させました。いわば2段階の環境変化を被っているのが、現在のブッシュマンです。その意味では遊動していた時代をしらない世代も30代を迎えていますが、まだかつての生活(遊動時代)を知ってる人たちが大多数かと思います。
さて現在のブッシュマンが暮らす村の中には小学校が一つあり、そこは国家のマジョリティであるツワナ(Tswana)の人が、教員として派遣され、ブッシュマンの母語ではないツワナ語で教えてます。まさに近代化教育でして、学校でブッシュマンの母語を話すと鞭で打たれるそうです。なので学校をドロップアウトする子がめちゃくちゃ多い。でも給食が出るので、これを心の拠り所として通学している子たちがたくさんいます【写真7】。
学校教育が浸透したら言語も変わるように思いますが、そもそもブッシュマンの村(再定住地)は陸の孤島みたいな場所です。私が調査地に行くまでも、首都から長距離バスとヒッチハイクで2日かかるんですよ【写真8】【写真9】。ヒッチハイクそのものはボツワナではポピュラーな移動手段で、最近ようやく乗り合いバスができました。なのである意味、現在でもブッシュマンの言語は守られています。そもそもブッシュマンの人たちも、村からあまり出ませんし。テレビにしても、ごくごく一握りの人しか持っていない。一方でラジオは結構持っている人が多いので、ラジオで流れる音楽でみんなで踊る、みたいな楽しみはあります。ネットは3Gかな。若者はFacebookアカウントを持ってはいるけど、画像をアップロードしようと接続したらずーっと接続中みたいな感じです。
ネット環境は、私がかつての日本でも経験したことのある状況ですね(笑)ブッシュマンにおける死との向き合い方について、ご紹介ください。
ブッシュマンにおける死との向き合い方について、私は三つの側面から分析しています。一つ目は、かつての死との向き合い方。二つ目が、今現在の彼らが実際に行っている葬儀に代表される、今現在の死との向き合い方。そして三つ目が、かつての死の向き合い方から今現在の向き合い方へと変化していることを、彼ら自身がどう受け止めているのか。今回、日本生活学会研究論文賞をいただいたのは、今現在の彼らが実際に行っている葬儀を分析したものです。二つ目の側面ですね。ちなみに一つ目の側面である、かつてのブッシュマンにおける死との向き合い方としては、埋葬後の移動がとても大切だったと分析しました。この点は、受賞論文の引用では「印刷中」として示し、後に『文化人類学』に掲載された論文(「弔いのディスタンス:ブガクウェ・ブッシュマンの死との向き合い方の変遷」https://doi.org/10.14890/jjcanth.87.2_149)で発表しました。かつてブッシュマンに死者が出るとブランケットに包んで埋葬し、特別なものとして墓は造らず、遺された人々は移動して行くというスタイルでした【写真10】。
現在のブッシュマンの葬儀は、国家のマジョリティであるツワナの人達のやり方を借用しながらやってます【写真11】。とはいえ「借用」と説明すると、近代化の中で変化を余儀なくされた人々、とか、かつての葬儀の多様性が近代化が進む中で失われてきた、などのように受け止められるかもしれません。けれども実際に観察すると、一見ツワナと同じようだけど異なるやり方であるとか、ツワナのやり方と同じことをしていても意味合いが異なるとか、そんな場面を多々見ることができました。近代化の過程の中で新しくブッシュマンの社会にもたらされたものを、いかにブッシュマンなりに修正しながら取り入れているのか、そこに注目したのが受賞論文の内容です。
具体例で説明します。現在、ブッシュマンも棺に遺体をいれて墓地に埋葬するようになりました。墓地やお墓を作ることは彼らにとって新しい慣習ですが、その際彼らが重視するのが、墓地のなかでどの場所に埋葬するのかです。一方でツワナの人たちは、どの墓地に墓を作るかを重視します。これは、牧畜民であり牛と土地が財産であるツワナの人々にとって、埋葬場所が土地の権利に直結しているからです。例えば子供が亡くなった時、父母いずれの出身の村の墓地に埋葬するのかで、裁判が行われることもあります。一方でブッシュマンは、人が亡くなって埋葬するとなったら、墓地にワラワラと集まってきて、ここは誰が埋葬されているのだっけと話しながら、ではこの亡くなった子は父親の近くに埋めようか、と生前の人間関係に配慮して埋葬位置を決めます【写真12】。
このような現在のブッシュマンにおける埋葬のあり方について、二つの側面から分析しました。一つ目は、住まい方の変化への対応です。彼らが新しい環境下で、新しく直面している問題を解消するために、このような埋葬をしてると分析しました。かつてのブッシュマンは、10人から多くとも50人ほどで暮らしていたんですけど【写真13】、先ほど紹介したとおり現在では国家政策として1000人を超える人たちで集住しています。この画像はブッシュマンが住む村(再定住地)の航空写真です【写真14】。政府は、ブッシュマンが再定住地に定住しますと手を挙げたら、その順で居住区を与えていきました。政府が決める順なので、この村に定住するまで全然知らない人がお隣さんになるケースが多発しました。かつての彼らの暮らしは、そのメンバーで命がけの狩猟に出向くわけですから、一緒に住む仲間はきわめて大事なことでした。ですけども今は、政府によって機械的に割り振られた居住地ですから、彼らにとってはすごく気持ち悪い住み方になってます。なので、生きているときに離ればなれでも、せめて亡くなった後は、自分たちの関係性を考慮して埋葬位置を決めているのだな、と分析しました。これが一つ目です。
一つ目の分析が変化の側面に注目したのに対し、二つ目は維持される側面です。死をきっかけとした関係性の再構築は、かつても現在もブッシュマンがしていることです。かつてであれば、亡くなったら埋葬し、その後に遺された者たちは次の住まいへと移動しましたが、その移動の際に、一緒に住むメンバーの出入りがありました。このように、死の発生に伴う関係性の再構築は、昔からあって、その感覚を今でも引き継いでいるのだな、と分析したのが二つ目です。このように、葬儀のやり方をツワナから借用しているとはいえ、ツワナのやり方そのままではなくブッシュマンなりにアレンジしている部分があります。また、一見、彼らが新しいことをしているように見えても、その実態はブッシュマンが以前からずっと持ち合わせてきた感覚を適用させている側面もあるな、と、環境が変化する中での、ブッシュマンの力強さみたいなものを描いたのが受賞論文になります。
なるほど。考古学の人がうらやましがるようなフィールドですね(笑)
(笑)実際に生きてる人に話を聴けることが、ですよね。私自身も、ブッシュマンのおじいちゃん・おばあちゃんに、昔の埋葬はどうだったとか、今の葬儀についてどう思うかとか、そういう話を聴けるのが本当に楽しくて。もちろん、死との向き合い方とは、けっこう辛いテーマではあるのですが、おじいちゃん・おばあちゃんの話が聴けるのが楽しいので、これまで続けてきました【写真15】。受賞論文では直接に取り上げてはいないのですが、かつての埋葬を含めた死との向き合い方について、累計すると300分ほどインタビューさせてもらいました。先行研究では、ブッシュマンは死との向き合い方がシンプル過ぎて分析しようがないと、全く触れられない領域でした。記録としては残されていて、わずかながら分析もされているのですが、ブッシュマンの平等主義など彼らの生活の特徴を説明する文脈で理解されていて、彼らが死とどのように向き合っているのかまで突っ込んだ分析はなかったです。
私がおじいちゃんおばあちゃんにインタビューしていろいろと話を聴くと、かつては、埋葬した後に次の居住地へみんなで移動する、その歩みの中で、死や喪失との向き合いがあり、埋葬後の歩みはとても大事なものでした。ブッシュマンは、先祖や死後の世界の観念は持ち合わせておらず、死んだ人のことは口に出さない暗黙のルールがあったことは先行研究でも知られていたのですけども、でも本当に忘れ去るのではなくて、死んだその人のことと喪失の感情をみんなで共有する手段として、埋葬後の歩みがあったのだろうと、別の論文で考察しました。
現在は生前の人間関係を考慮して埋葬位置が決められるという話題から、かつては移住する集団に出入りがあるとの話題へと展開してきたので、少し整理させてもらいたいのですが、ブッシュマンが死と向き合うという場合、誰が向き合っているのか、その人間関係について教えてください。かつてであれば移住する集団ですから「キャンプ」と呼んでいいのですかね、現在でしたら一緒に埋葬される関係性というか。親族はイメージできるのですが、親族以外ですと誰になるのでしょうか。
質問ありがとうございます。かつてのキャンプは親族と友人関係が中心となってましたので、それが死と向き合うメンバーになりますが、これはつまりブッシュでの経験を共有しているかどうかが重要なのだろうと思っています。故人がどういう人だったのかについて、動物のイメージと重ね合わせてストーリーとして語ることが、ブッシュマンには多々あります。たとえばある女性が亡くなった時に、この女性はヒョウの呪いで死んだのだ、と語られました。亡くなったこの女性は、夫とは別の男性と関係を持っていました。女性が複数の男性と関係を持つこと自体は珍しいことではないのですが、その女性の親族がすごく心配していたのですね。なので、親族に心配をかけることがよくない、とキャンプで共有されていたそうです。またその当時、ヒョウがキャンプを襲うことが多発していて、その時期に、女性と関係があった男性(夫とは別人)がヒョウの肉を調理して、その男性を通してヒョウの匂いが女性に入り、それが呪いになって女性は死んだのだ、と語られました。ヒョウによってキャンプが襲われ、われわれが苦しめられていたこと、そしてその女性が親族を心配させていたこと、この感覚をオーバーラップさせながら、死と向き合っていたのかと思います。なので、故人のこととブッシュや動物のイメージ(=故人の死のストーリー)を共有するまとまりが、死と向き合う集団になります。
狩猟採取の時代は一緒に行動することで、狩猟の現場を含め危機を共有することで関係性が生まれ、それで死との向き合い方にも影響することは想像できるのですが、いま定住して国家から配給される時代になっても同様なのでしょうか。
そうですね。今でも親族関係と友人関係が中心となってるんですけど、それに加えて定住地に移り住む以前から一緒にいるかどうかが大事になっています。出身地を同じくするかどうかは、ブッシュで同じ経験をしてきたかどうかとも繋がります。それにより、われわれというまとまりが作られていると思います。そのまとまりが一番よく目に見えるかたちで現れるのが、食事を分け合う場面です。お隣さんとはフェンス越しに何でも見えてしまうのですが、故郷を異にするし特に関わりがないので、料理が出来上がったことが丸見えなのに分けない、逆に、離れた場所に住んでいる友人宅まで食事を運んで分けるということが日常的にされています【写真16】。
動物が呪う、の話題でしたけども、人間は死者であろうが生者であろうが、そんなことしないのでしょうか。先に、ブッシュマンは先祖や死後の世界の観念を持ち合わせていないとのことでしたが。
マジョリティであるツワナには、人間(死者・生者)から呪われる話がたくさんあります。一方、ブッシュマンの場合は人間からくる呪いの話はあまりないですね。先にヒョウの例を言いましたが、ブッシュマンには動物による呪いの話がよくあります。シベット civet というジャコウネコ科の小型動物がいまして、これが呪うのですが、おそらく狩猟の時の体験したことが重なって人々の中でイメージが形成されたと思われます。シベットは顔だけ見ると、すっごい可愛い顔なんですね。ところがいざ狩ろうとすると、急変して威嚇してくるんだそうです。この、見た目のギャップというか態度が急変する様子が、たとえば子供がコロコロと笑いながらさっきまで元気で遊んでいたのに、突然バタッと死んでしまうことなどを、重ね合わせたのかなと思います【写真17】。とはいえ狩猟採取が禁止された現在ですと、イメージを共有するブッシュでの体験も激減しているわけですから、このような呪いやら、死生観にも繋がる霊魂観などがどのように変化するのかについても、観察していきたいです。
ツワナとブッシュマンとの違いでいうと、ツワナは遺体をとても丁寧に扱います。ツワナのお墓って、埋葬した上に影をつけるために屋根をかけてあげるんですね。すごく日差しが強くて乾燥した国なので、太陽の光が死に繋がるのだろうと思います。なので私が日本では遺体を焼くんだって言うと、なんでそんなことするの、と驚かれます。ブッシュマンは気にしないとは思うんですけど。
とはいえツワナからブッシュマンへ徐々に影響はあるようで、たとえばツワナではとにかく葬儀にお金をかけることが大事です。お金がなくても、親族や友人にお金を募って、それこそ全財産をつぎ込むくらいの勢いで葬儀をしてお墓を造る。ツワナに共有されている死者に対してお金を使うべきみたいな価値観と、そのためにもお金を貯める生活が望ましいとの考え方が、ブッシュマンにも共有されつつあります。ツワナはツワナで、葬儀にもキリスト教の影響を受けてきており、それがさらにブッシュマンにも影響を与えてきている。かつてのブッシュマンは死後の世界を想定しないし、先祖の観念もなかったのですが、ツワナ経由で、ブッシュマンにも先祖というか死者を想定する考え方を持ち始めていると思います。たとえば死んだら空に行って私たちを見守っているみたいな考え方や、死んだ人に怒られないように暮らすべき、みたいなことを言う人が結構増えてきました。
政治的問題に絡む話題としては、最近、埋葬地を巡る裁判をブッシュマンが起こしました。かつての彼らの生活域に亡父を埋葬したいというブッシュマンの希望を、政府が認めなかったので、政府に対して裁判を起こしました。これはブッシュマンも、彼らがかつて生活した土地が自分たちの土地であることを主張するために、先住権意識を抱き始めたというか、主張し始めたと思ってます。これは死との向き合い方というよりは、裁判の方便として死者を利用しているようにもみえて、難しい問題です。
今まさに文化人類学会で話題になっていること https://www.ethics.jasca.org/ に直結する問題ですね。お聞きすればするほどに、文化人類学あるいは地域研究のど真ん中で研究を重ねて来られたことが分かりました。それでは次に、生活学にも関わるようになられた経緯を、お聞かせください。
私としては「生活学」が心の中でバチッと刺さってまして、とてもマッチしていると思ってます。このインタビューをきっかけに、私が「生活学」にこんな感覚を抱くのはどういうことだろうかとあらためて考えてみたのですが、二つあると思います。一つ目は春の学術大会でも話題となった「生活学とは何か」についての考えです。私ごときがおこがましいとは思いますが、私なりに生活学とは、たとえ「文化」とまでは呼べなくとも、人々の心の中で共有して持っているみたいなものを、うまく掬い上げていくような学問なのではないか、と考えています。私が掲げている研究テーマ「死とどう向き合うか」は、おそらく誰しもがふとした時に考えたことがある一方で、普段わざわざ口に出して話すようなことではない。そういう、誰もが抱くモヤモヤの感覚を捕らえようとする意味で、私の研究はすごく生活学っぽいのではないかと思います。
二つ目は、これまでの死に関する研究蓄積の中で、特に文化人類学では葬送儀礼の「儀礼」に縛られ過ぎてきたと感じてます。「儀礼」つまり死を受容する場面で分離・過渡・統合の過程があり、それに水路付けられる形で社会が再生産される。このように説明されるプロセス自体に私は疑問があり、前提としてそのようなプロセスがあるのだ、とするよりは、今を生きる人たちによって社会的なものがどう再構築されているのかを見るべきではないのかと考えてます。研究者が現地のあり方の死を捉える客観的な分析として儀礼研究そのものはすごく面白いと思いますが、実際に死と向き合う人の気持ちになって考えると、儀礼に縛られ過ぎてしまっては、死との向き合い方の分析にはならないだろうと思ってます。そもそもブッシュマンの死の場面を古老から聞くと、儀礼っぽくないというか、死後の世界を想定しないし、先祖という考え方もないので、死者を社会からわざわざ分離することもしないし、死者を死後の世界へと統合することもないわけです。時に命がけで狩りに出ていたブッシュマンにとって、死は日常生活の地続きにありました。仲間の死後もやるべきことは、ただただ死をもたらしたこの世界で生き続けるだけで、生と死は分離も統合もない、表裏一体のものだと感じます【写真18】。人が実際にどのように生きているのか、その実生活込みで死との向き合い方を捕らえていくことが大切だと思ってまして、その意味でも私の研究は、従来の「死の人類学」とまとめられてきた研究よりは、はるかに生活学に近いと思っています。
2015年に修士へ進学したのですが、そのタイミングで自分の研究関心は何だろうとあらためて考えて、その時に「生活学」を知りました。ブッシュマンについては、自分が何をしたいのか良く分からなかった高校時代に読んだ、2009年10月3日の読売新聞朝刊の記事『ブッシュマン逮捕続々―ボツワナ政府 狩猟認めず固有文化喪失』で知りました。それ以来、心の中でずっとここに行ってみたいという想いがあり、(家族に大反対されながらも)院に進学しました。ありがたいことにブッシュマン研究の拠点として半世紀以上の蓄積がある京大には、言語学者によってつくられた辞書があります。それを頼りに言語を学びましたが、ただ発音がものすごく難しくて、そこは本当に調査助手【写真19】にお世話になってます。
研究蓄積といえば、ブッシュマン研究の大先輩で田中二郎さん(京大名誉教授)がおられます。かつてのブッシュマンの生活を伝える写真は二郎さんが1960年代に撮影したもので、私も研究で活用させてもらっています。最初に現地へ赴いたとき、二郎さんの本に書かれているのと全然違うぞと、とてもショックでした。二郎さん時代のブッシュマン研究は、人類の進化過程を解き明かすものとして注目されており、「極度に乾燥した大地でいかに生活しているか」など、ブッシュマンそのものの生活実態の解明がなされてきました。一方で、私にとってブッシュマンは、遊動生活から定住生活へ、少人数での暮らしから国家政策による管理下での生活へ、と一人の人間がその人生の中で大きな環境の変化を経験している人たちです。コロナ禍を経験し、環境の劇的な変化の中で、どう生きるか/どう死と向き合うかを喫緊の課題とする私たちにとって、ブッシュマンは最先端に位置しているのではないかと私は考えています。なので私にとってブッシュマン研究は、人類のこれまでを見るということではなく、人類のこれからを見ることができると思っています。
なるほど、環境がガラッと変わるとは、災害や戦争も同様ですね。環境の変化に伴って住まい方から大きく変化したという先ほどのブッシュマンのお話しをうかがいながら、私は震災後の仮設住宅を連想していました。
そうなんです。ブッシュマンを研究することが、ブッシュマン研究に閉塞するのではなく、もう少しこの私たちの実生活と呼応するような、たとえば日本人における死との向き合い方も考え直すきっかけになるような研究にならないかと、死生学領域にも関心を寄せています。
今後はどのような方向で研究を予定されてますか?
一つは、アフリカのブッシュマンだけでなく、日本でもやっていきたいと考えています。今現在の日本人がどういう死生観を持っているか、また人々が死とどういう向き合い方を再編しているのかを見て行きたいと思ってます。死との向き合い方は、日常の中で人々が意識する題材ではないですが、一方でここ数年のパンデミックや震災などによる大きな環境の変化は、人々の生活を一変させただけでなく、社会をますます孤立化させてきました。このような新しい状況下でどのように死と向き合えばよいのか、身近な問題として人々に提起したのではないかと考えてます。世代をまたいで葬儀の形が変わるのではなく、今を生きている一人の人間の中で葬儀のあり方がガラッと変わる、こういった環境の変化の中で、人々がどのように死と向き合っているのかということ、加えて、死と向き合うことが個人ではなくって、みんなでやっていくものであり、つまり社会的なものであるよねってことを、いかにみんなでリマインドしながら=思い出しながら死と向き合うんだろうかというところは見て行きたいです。
「環境の変化の中で人々が死とどう向き合うか」ということは同時に「環境の変化の中で人々の感情の共有のあり方を見る」ことになるんじゃないかなと思っています。ブッシュマンに限らず、私たちの死との向き合い方を支えてきた、集団で共有する経験の蓄積や想起のあり方も大きく変化してきました。「家族葬」や「墓じまい」など、目で見て分かる個人化の一方で、悲しい気持ちであったり、大切な人を亡くした喪失感といった気持ちを、人々がいかにつなぎ合わせて、現在における死との向き合い方を再構築しているかを見ていきたいです。
二つ目は、「死(死後)」だけでなく「死にゆく過程」を見ていきたいと思っています。かつては狩猟採集時の怪我など自然の中に死因があったブッシュマンですが、現在の死因(死にゆく過程)は交通事故死やAIDSの発症、自殺など、定住の負の側面をありありと彼らに突きつけるものになっています。彼らの死にゆく過程を分析していくことは、ブッシュマン自身が環境の変化の中にある「死」だけでなく「生」とどのように向き合っているのかを明らかにできると考えています。また、これまで死とどのように向き合うかに焦点を当てた研究分野は、主体を「個人」あるいは「社会」とするかによって「死生学」と「社会学・文化人類学」で二分されてき、さらにそれは「生前」と「死後」といった研究分野における対象の分断でもありました。患者個人だけでなく、それを支える人々や社会を巻き込んだ期間である「死にゆく過程」に注目することは、死の人類学の新たな展開に繋がるのではと考えています。
本日はどうもありがとうございました。
(インタビュー日:2023年7月27日)
インタビューを終えて(インタビュアーの一言)
【大橋】
杉山さんが最初に見せてくださった調査中のテントの写真は、文化人類学の教科書に出てくるマリノフスキーさながらで、食い入るように見てしまいました。「通い」での参与観察ではなく、寝食をともにしながらの参与観察だからこそ見えてくるディテールの持つ力強さを感じたインタビューでした。伝統的な人類学の調査技法に根ざしながら「環境の変化の中で人々が死とどう向き合うか」という問いに取り組む杉山さんの研究は、確固たる「文化」や過去を記述するというより、人々の生活を過去ー現在、そして未来をも包含する視点で理解することにつながるものだと思いました。
【土居】
私が学部生の頃、人類学のフィールドワーク対象は前人未踏の地であることが望ましい、と一般教育の講義で教わりました。世代が替わり、人類学者は前人が踏み歩いた地で、どのように調査しているのか、気になってました。今回のインタビューでは、杉山さんが調査地としたフィールドの様子とともに、前人である田中二郎さんの調査記録と向き合う杉山さんの姿勢も、知ることができました。
それにしても生活学で、「死」に関心を寄せる若い研究者がおられるのは、とても心強く思います。近い将来、生活学の研究大会などでパネル発表などできればと望んでいます。