運動部活動における体罰を文化人類学的アプローチで考える
庄形篤氏(上智大学 基盤教育センター 身体知領域 講師)
インタビュアー:土居浩(ものつくり大学)・大橋香奈(東京経済大学)
*所属などはインタビュー時のものです
あらためて、日本生活学会研究論文賞の受賞おめでとうございます。まずはご自身の研究フィールドをご紹介ください。
庄形篤(ショウガタ・アツシ)と申します。
専門分野は「スポーツ人類学」でして、日本の運動部活動を対象として、フィールドワーク調査に基づいた研究に取り組んできました。そもそもは、早稲田大学のスポーツ科学研究科で当時教授をされていた寒川恒夫先生(ソウガワ・ツネオ/専門はスポーツ人類学・スポーツ文化論/早稲田大学教授、静岡産業大学教授を歴任)のもとで学んだことに始まります。研究室としては、広義のスポーツを対象として人類学的な研究を行っていました。ここでいう「スポーツ」とは、オリンピックに代表されるような競技スポーツや国際スポーツに限定されるものではなくて、民族スポーツや遊び、舞踊、武術、身体文化などを含めた最広義のスポーツを対象としていました。研究室の先輩方は、特に「民族スポーツ」と呼ばれる特定の民族だけが行うスポーツや伝統武術など、世界中の国や地域のスポーツを研究していました。留学生も多く、帰国子女もおられて、それぞれの関係する国や地域を対象にするなど、各人のアドバンテージを活かしたとでもいうのでしょうか、そのような研究に取り組まれている方々が多かったのです。ただ私にはそのようなアドバンテージが全くないので、研究対象を選ぶ際に迷っていたのですが、寒川先生から、日本の運動部活動も立派な研究対象になり得る、とご助言いただいたことを契機に運動部活動を研究対象にするようになりました。それまで私は、競技者また指導者として運動部活動に関わってきたので、その経験や人脈を活かして調査研究ができるんじゃないのかなと考え、研究対象として選びました。
運動部活動の調査をしていく中で、受賞論文(庄形2022「運動部活動における体罰肯定と「成長」という認識:事例研究からみる引退後における体罰の再解釈過程」『生活学論叢』vol.39。2022年度日本生活学会研究論文賞)でも中心テーマとなった体罰の問題を扱うようになりました。その根本には、部員がなぜ体罰を受け入れるのか私には理解できない、との気持ちがあります。私自身、部活動はずっとやってきたんですが、体罰を受けてきたわけではないんです。ただ研究する以前に、友人や先輩後輩から体罰を受けた話を聞く機会が非常に多くあり、しかもそれが結構肯定的に語られていることを見聞きしていた経験があります。体罰は本来なら否定されるべきというか、それこそ日本では、戦前であれば明治12年(1879)の教育令で、戦後の学校教育法(1947年)で、それぞれ体罰禁止が明文化されているように、かなり古くから体罰は禁止されている中で、なぜ肯定されるのかわからない。そこで先行研究に当たるのですが、体罰という非常にデリケートな問題なので、なかなか明確な答えが示されていないことを知りました。そもそも私が研究に取り組み始めた当時はですね、2010年頃の話なのですが、この部活動における体罰に関する研究自体、数えるほどしかなかったのです。ただ、2012年末に大阪で起きた事件が状況を大きく変えるんですが、桜宮高校バスケット部体罰事件です。それ以降になると、かなりいろんな分野で部活動における体罰に関する研究が始まるんですが、それ以前ですと、全国学会の学術誌ではまず確認できず各大学の紀要などに掲載される程度で、スポーツ社会学とかスポーツ心理学・スポーツ教育学といった領域の研究しか公表されてませんでした。体罰自体そのものも、社会問題として捉えられるのが1980年代後半〜90年代ぐらいからだと思うんですよね。なので、部活動についてそこまで研究もない中で、私自身は興味関心を持って始めた形です。とはいえ先行研究は、一つだけインタビューに基づく研究があるんですが、ほとんどは大学生や短大生を対象として、過去を振り返る形でのアンケート調査でした。もちろんそこから得られる知見は非常に重要だと思ったのですが、なんといえばよいのか、実態を捉えきれていない部分があるんじゃないのかな、と考えました。私自身は人類学を専門にしていたので、やはり実際に調査に入り、当該部活動の背景なども考慮しつつ、そこで行なわれている一つの体罰っていうものを多角的に見ていく必要があるんじゃないのかと考え、このような研究をずっと続けてきた形です。
先行研究も少ない現代日本の運動部活動を研究対象とされた当初、研究室仲間からの反応はいかがでしたか?
私が運動部活動の研究を始めたのは、今から10年ほど前のことなのですが、その頃には文化人類学でもホーム人類学など、外だけではなく内に向けての研究も始まっていました。ですが当時所属していた研究室の中では、先ほども述べた民族スポーツであるとか伝統武術であるとかを対象としている人たちが多くて、それで全てといっても過言ではなかった状況でした。ただ周囲から、日本の運動部活動を研究してもスポーツ人類学ではない、のような否定的コメントをされたことはあまりありませんが、私自身の中で少しだけ、この研究でいいのだろうか、と思っていたことはありました(苦笑)。なので修士課程から博士へと進む中で、やはり一度は海外をフィールドにした「ザ・民族スポーツ」みたいなのを対象とすべきだろうか、と悩んだ時期もあったのですが、それこそ寒川先生に、現代日本の運動部活動は、博士でも充分に研究対象としてやっていけるテーマだとアドバイスをいただき、また先輩方からもアドバイスをいただきながら、続けてこれた感じです。
研究に手応えを感じたというか、修士論文を寒川先生に高く評価していただいたことは、私の中で大きかったですね。寒川先生は、もちろんゼミでご指導くださいますが、一から十まで細かく指導するのではなく、結構「自由にやりなさい」とのスタンスでしたので、私がやろうとしていることが完成するまでは、おそらく先生にも伝わりきれてなかったと思います。ですから書いたものを読んでいただいた時に、評価をいただいたのはやはり大きかったです。その修士論文は、スポーツ人類学会の機関誌『スポーツ人類學研究』に原著論文として投稿・掲載され、賞もいただきました(庄形2013「運動部活動における体罰受容のメカニズム:A高等学校女子ハンドボール部の事例」『スポーツ人類學研究』第15号。日本スポーツ人類学会研究奨励賞)。そして他の先生方からも面白かったと声をいただき、徐々に自信をつけた経緯があります。
現在の職場である上智大学での研究や教育について、ご紹介ください。
早稲田大学スポーツ科学研究科で修士号・博士号を取得した後、1年間は非常勤講師で過ごし、2019年4月から現職の上智大学に着任しました。肩書きは「常勤嘱託講師」つまり期限付き講師で、着任当初は文学部にある保健体育研究室に所属となりました。主には全学共通の必修科目「ウエルネスと身体」を担当して、週1回実技のスポーツも担当していました。ただ今年度から上智大学に基盤教育センターの身体知領域という新たなセクションができまして、そこに所属となりました。それに伴い、先述の担当科目「ウエルネスと身体」が「身体のリベラルアーツ」に変わり、全学共通科目であることは同じなのですが、全14回でしたのが、クォータ制との兼ね合いで全7回で構成することなりました。他に「スポーツ人類学概論」を担当したり、また「文化交渉入門」を分担したり、またスポーツ実技を担当したりしてます。
上智大学で私が担当する科目のキーワード「身体」は、私が上智でお世話になる以前のカリキュラム改革がベースになってます。元々は上智でも、いわゆる一般体育みたいなスポーツ種目をいくつか選び、それを卒業単位とする制度でした。ですが大学の授業としての見直しが必要ではないかとの議論の中で、ひとつ「身体知」を中心にやろうとの流れが起こりました。その当時おられた専任の先生方は十数名おられたのですが、身体知だけでなく、もっと健康科学的な姿勢も必要だろうというグループもあり、そこで「ウエルネスと身体」という、健康と身体感覚との二本立ての科目がまずはできたと聞いています。複数の教員で担当しているため、それぞれの裁量に任されている部分もありますので、たとえば健康科学や心理学、文化論など、それぞれの専門に近い立場から、身体について考える授業、身体を使って考える授業を展開してます。現在私が担当するクラスでは、かなり身体知に寄せてます。とはいえ「身体知」という概念は、私が専門とするスポーツ人類学ではごく稀に目にするくらいです。スポーツはもちろん身体に関する研究も多いですが、術語としては「身体化」や「身体文化」の方がむしろ目にします。
現職に就く以前は、体罰を考えるときに身体の重要性についてそれほど考えてこなかったのですが、今の勤務先で「身体知」の概念を勉強する中で、身体を通した学びについて考えることになり、最近、紀要に体罰と身体知のことを研究ノートで書かせてもらいました。文化もそうだと思いますが、身体を通して学び、身体に根付くことによって、条件反射的に何かを選択することが起きるようになる。このように考え出して、あらためて「体罰」について考えますと、中学校にせよ高校にせよ3年間の部活動の中で、身体を通して体罰を経験し、引退後にその体罰を再解釈している中で、自分の身体を通してそこに価値を見出していく。このようなプロセスがあるのかな、と感じております。そう考えると、体罰が肯定される理由に、身体が結構重要な役割を果たしている。というか、果たしてしまっているのではないか、と最近では考えています。
というのも私の研究で紹介したように、体罰を受けてそれでも肯定している人たちが現実におられますが、その人たちにどんな理屈を示しても、その肯定感を崩すことって、できないんですよね。その人たちも、体罰が悪いことは認識しているんですよ、もちろん。体罰はやらない方がいい、体罰はない方がよい、などの発言もしますし。ただ当人は、体罰を通して成長したとか仰って、その部分はやっぱり崩せない。崩せないのは、やはり身体を通して学び身体に根付いてしまったからではないか。そのような価値というか「文化」と呼ぶのが適切か分かりませんが、その人にとってある種の「身体知」みたいになっているので、理屈では変えることができないようなモノが身体に根付いてしまっているのかな、と考えています。
理屈では変えることができない身体に根付いてしまった価値、という話題から、家庭内における体罰の問題を連想しました。いわゆる躾における体罰について、どうお考えですか。
私自身はこれまで、部活動における体罰に限定して研究したりとか書いたりしてきたんですが、躾における体罰と、構造というか枠組み自体は同じだと考えてます。なので私の研究は、部活動に取り組んでいる人以外は無関係と感じる部分があるかもしれないのですが、躾における体罰と捉えると、一気に射程が広がります。体罰をした側は「子供の成長のため」であるとか、体罰をされた側は「自分が成長した」とか、肯定的意味を付与するようになる構造がありますが、大きな枠組みで捉えた時には、おそらく部活動における体罰も、躾における体罰も同じだろうと私は考えています。
「躾」の名目で行われる家庭内の体罰に関しては、虐待として事件化した時ならともかく基本的には表面化しにくく、今でも普通に行われていると思います。ただそれは「体罰」と思われていない、そう認識されていない、あるいは場合によっては「躾において体罰は必要である」とすら考えられているのかな、と思っています。というのも私は上智の学生に体罰についてディスカッションさせることがあるのですが、二十歳前後の若い学生でも、躾や教育において体罰は必要ですね、という発言が案外と多いのです。もちろん、ものすごく否定的に捉えている学生も大勢います。その一方で、授業でディスカッションすると「やはり体罰は場合によっては必要だ」「体罰以外に方法はない場合もある」等々の結論が出たりするぐらいには、躾における体罰は、日本社会において結構当たり前のように受け入れられている。念のため確認しておくと2020年に法律が変わり(改正児童虐待防止法と改正児童福祉法の施行)、家庭内の体罰も法的に禁止されたので、もうどういう理由があっても体罰をしてはダメになってます。とはいえ躾における体罰は、法的に禁止されているものの、実は結構当たり前のように受け入れられているかなと、私は考えています。
部活動での体罰を肯定する背景として、家庭内での躾における体罰体験と言いますか、その人の過去に体罰を受け容れる条件が作られている可能性も、想定されますね。
その可能性も大いにあると思います。というのも研究の中でインタビューした元部員の一人がそれ以前から結構体罰を受けており、彼に話を聞くと、体罰とはスポーツしてたら当然のことだと、高校生の時から思っていたというのです。というのも彼は小学・中学野球でかなり体罰を受けてきたらしく、彼自身にとっては当然なので、高校生になって体罰を経験しても、特に何も思わなかったというか、まあ当然のことだし、当たり前すぎてあまり覚えていないとすら言うほどでした。彼以外に話を聞くと、あの時はこんな流れでこんな体罰が起きた、とかなり具体的に詳細な発言が出たのですけど、彼からは「まああんまり覚えてないですけど、よく叩かれてましたね」みたいな感じになりました。やはり以前から体罰の経験を重ねてきた人たちは、体罰を受け容れやすくなってしまうのではないでしょうか。もちろん最初は家庭だと思いますし、家庭で体罰を受けた人たちは、部活動の中での体罰も受け容れやすいとは思いますね。
あと、これは結構重要なところだと思いますが、そもそも体罰の定義が、かなり曖昧です。学校内の体罰に関しては文科省が「体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について(通知)」(24文科初第1269号/平成25年3月13日)とその付録の「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰等に関する参考事例」で具体例を並べて書いてますが、ただかなり曖昧な表現も残していて、何が体罰に当たるのかは判断が難しい。最終的には、事件になった時に裁判所が体罰かどうかを判断するところまでいかないと、分からない。しかも一人一人が思っている体罰の定義も、かなり幅がありますから、授業でディスカッションをさせても、体罰の延長上に虐待がある、体罰と虐待との間がグラデーションで繋がっている、と捉える学生も多いのです。ただこの捉え方は危ういと感じてまして、暴力の強弱・程度で体罰かどうかを判断するのは違うと思っています。身体に対して直接的に罰を与えたら、それはもう体罰です。程度が弱かろうが強かろうが関係なく、それは体罰だと私は思うんですよね。ちょっと研究以前の問題になるかと思いますが、体罰をどう定義するかが、体罰問題の議論を難しくしていると言いますか。国際比較の問題でいえば、日本の「体罰」と英語圏の ”corporal punishment” とは、全く違うものですし。アメリカとかですと、校長室に呼ばれて、校長先生が体罰に使う棒みたいな器具(wooden paddle)を使ってお尻を何回叩く、といった形式張った体罰があります。でも私の知る限り、そのような形式張った体罰は日本にはなくて、教員の裁量に任されています。なので国際比較する時にも注意が必要で、同じ体罰として捉えてよいかをまず検証する必要があるので、本当にこの定義の問題は、結構厄介な部分だと思ってます。
いま「厄介」と仰いましたが、あからさまにすることが難しい、いわば負の価値であることを研究対象にされてこられる中で、なぜこんなマイナスなことに取り組んでいるのだろう、とご自身で思い悩むことは、ありませんか?
あります(笑) やはりこの体罰の問題は、扱うにあたり一手間も二手間もかかるというか、いろいろ配慮しなければいけないことも、たくさんありますし。
たとえば文化財を将来に遺したいという人たちがいて、その人たちに対して、文化財として価値があるから研究させてくださいとコンタクトを取れば、その人たちに喜ばれることですよね。いうなれば、大学の偉い先生がきてくださって私たちの文化を評価してくれた、みたいに歓迎されることでしょう。
でも私の研究って、ある種、誰からも歓迎されないというか(苦笑) しかもそれを「書く」となった時には、書き方をいろいろ考えないと、私が意図していないように受け取られてしまう可能性も高いですし、非常に怖いところがあります。もちろん私は体罰を肯定しているわけではありません。ですが、なぜ体罰が受容されるのか・肯定されるのかを考える時には、倫理的判断を一度は解除して、実際の現場でどうなっているかを書かないといけなくなります。ただそのような価値判断を解除した書き方をすると、読みようによっては、著者である私が、その状況=体罰が受容されている状況を肯定している、と受け取られてしまう可能性もあります。なので論文の冒頭で、体罰を肯定しているわけではないです、と明記する等々の配慮が、限りなく必要になります。そもそも今こうやって体罰の話が少しできるようになりましたが、先述した2012年の事件直後などは、もう体罰の「た」の字を出したら叩かれる、ぐらい本当に社会全体が過敏になっていた時期がありました。なので正直にいうと、その時期は何も出来なかったので、私自身もうこの研究をやめようかな、と思うぐらいまでなりました。私自身、この体罰の問題は研究として面白い部分もあると思っているのですが、同時に、大変だなと思ってます。
受賞論文からもラポールの形成に配慮されておられることがうかがえたのですが、そもそも庄形さんご自身は体罰について、体罰を受容・肯定している方々と全く価値観が異なるわけですよね。そのような方々と、どうやってラポールを築かれたのでしょうか?
もちろん体罰に限定すると考え方は違うのですが、私もずっと部活動を競技者・指導者として取り組んできましたので、部活動に関わってきた部分では、仲間意識を持ってもらえるわけで。その前提で、コミュニケーションを取りながら信頼関係を築いて、体罰の話を聞く段階になるまでに、しっかりと人間関係を築いてラポールを形成してから聞く。この段階を踏むことが、私は重要だと考えてます。アンケート調査全般を否定するわけではありませんが、いきなりアンケートを書いてくださいとなった時に、そのアンケートの回答にどれだけ本音が反映するのだろう、と考えてしまうのですね。もちろん本音でアンケートを回答してくれる人もいるとはおもうのですが、体罰というデリケートな問題ですし、今のご時世だと、本音よりも望まれる回答を選ぶことすら起きているのではないか、とさえ思ってしまいます。やはりまず人と人との関係性を築いて、それでその集団がどういう活動をしているのかを具体的に調査に入っていろいろと調べて、そこから最後に体罰のことについて触れる、という手順を踏むようにしています。
幸いにしてというか、体罰の現場を目撃したことは、研究者として調査に入っている時にはこれまでありません。研究者として関わる以前、部活動には競技者・指導者として長いこと関わってきてますので、たとえばコーチをしていた時、もちろんはるか昔の話ですが、対戦相手の指導者が生徒に手を挙げている場面を見たことは、もちろんあります。これはとても難しい問題で、研究者として関わり出してからは時期的なこともあるのか、体罰の現場に遭遇したことはないのですけども。もし遭遇したら、私の身体知が試されますね。手を差し伸べて、体罰を止めるのか。こればかりは分かりません。
その意味で体罰は、かつてよりも少なくなってはいると思いますが、やはりなくなってはいないのですね。部活動中の体罰で処分を受けた人数を調査した文科省の公表資料によれば、2012年(平成24年)は事件発覚を受けて詳細な調査が入ったので、爆発的に増大しました。それで2年ほど経過すると激減しますけど、でも事件前の数字とさほど変わらない。結局、事件前の数値に戻って一定しているだけで、ニュースでも体罰の話題は流れ続けますし、少なくなっているかもしれないけど、なくなってはいない。あと、突発的・感情的な暴力が起こる可能性はどうしてもありますし、それが部活動の中で発生してしまうと、統計上は「部活動の体罰」として括られてしまうでしょう。私が研究対象として把握してきた体罰は、それが恒常的であること、何らかの肯定的な意味合いを含んで行われること、そのような行為を対象としてきましたので、その意味では異なります。異なりますが、いま説明したようなわけで、部活動の体罰はゼロにはならないだろうな、と思っています。
少しメタな視点から、『巨人の星』みたいなスポ根コンテンツの影響のような、体罰とメディアの関連について、お考えをお聞かせください。
メディアの影響について、研究レベルでどう捉えるのかはとても難しいと思うので、あくまで推測ですけど、私もかなりの程度あるのじゃないかなと思っています。昭和の大映ドラマである『スクール・ウォーズ』(1984〜85年)などは、実話が元になってますよね。テレビ放送から20年も経過してリメイクされ映画になりました(2004年)けれど、その予告編の最後で「俺は今からお前たちを、殴る」と、あの有名なセリフが画面にデカデカと映し出されて、「傷だらけのヒーローの伝説はここから始まった」と、部活動における体罰を、それこそ「成長」の物語における「よきもの」として、描いてますよね。。非行に走っていた生徒たちが、体罰も含めて厳しい練習を乗り越えて成長していく、そういったストーリーが受け容れられている。実際のところ時代的に80年代あたりですと、非行に走る不良生徒たちを部活に集めて管理する、といった管理主義的体制が全国的に行われた時期ですので、そうなるとメディアが現実に影響を与えたというよりも、実際の現場の様子をメディアが拾ってきた側面が大きいでしょうね。
ともあれ実写であろうが、漫画やアニメで体罰が「よきもの」として描かれたら、刷り込まれてしまうでしょうし、かなり影響はあるでしょう。現代日本において、体罰を「よきもの」として受容してしまうある種の「文化」が根強く存在する、とは言えそうです。
ご研究と生活学との関連について、お考えをお聞かせください。
お答えするのが非常に難しいです。というのも、実は入会して間もなくて、「生活学」や「生活」といった概念についても充分な知識を持ち合わせていない自覚がありまして。なので、自分の研究と生活学との関連について明確にお答えするのは、ちょっと難しいです。
この学会に参加させてもらったきっかけは、大学院の時の先輩からの紹介です。生活学会には、人類学や社会学に限らず、いろんな分野の先生がいるから、スポーツ人類学からは出ないような意見やアドバイスがもらえるからいいんじゃないか、と言われまして。今ちょっと「生活」の概念を勉強しかけてまして、私自身は「文化」について研究を続けてきたので、この「文化」と「生活」は概念としてかなり被る部分もあるのか違う部分もあるのか、といったレベルの次元ではありますが。
ただこの日本の運動部活動は、世界的に見ると非常に珍しい活動で、欧米では青少年のスポーツは地域が担うというか、地域のクラブがある。日本ではスポーツが入ってきた時に、まず大学で受容されて「倶楽部」ができて、それが中等教育機関に広がった、との歴史的背景があります。戦後になると、部活動にいろいろな役割が期待され、部活動が拡大していって、今の状況がある。私はある種これは日本における一つの文化として確立している、と考えてます。もう一つ言うと、中高生にとっては日常生活の一部というか、衣食住とは違う意味で、生活になくてはならないもの、一番大事なものだと捉えている層がかなり存在する。これは多分これまで生活学が主に扱ってきた対象とは異なると思いますが、部活動のような興味・関心に基づく活動について、人類学的アプローチを試みる中で、「生活」や「生活学」について考えていけたらいいな、と思ってます。そして学会員のみなさんに、いろいろとご鞭撻いただきたいと思っています
今後の展望や予定について、お聞かせください。
これまで体罰を中心に研究してきたのですが、ちょっと体罰から距離を置こうかと思ってます。運動部活動を対象にすることは変わらないのですが、体罰については少しお休みして、部活動の中での学びみたいなことを、人類学的に研究したいと考えています。この上智に勤めるようになって、学びにおける身体性・身体知を勉強していく中で、そちらへ興味関心が移りまして。というのも、部活動は学校教育の一部ではあるのですが、いわゆる課外活動と呼ばれるもので、「課」外つまりカリキュラムに含まれない活動ですよね。教育内容や形式も全然決まっていない。教科書や指導マニュアルもない。その中で取り組まれているのですよね。ご存知の通り教員が中心となっていることが多いですが、それぞれの部活動が、ある程度の自由度を持って独自の活動をしている。そこでは、いわゆる学校で行われている教科の学習とは、また異なった学びの形があるのではないか、と私は考えています。その辺りのことを、フィールドワーク調査を基に描けたらいいな、と勉強を始めた段階です。関連文献に当たりつつ、まずはすでに調査したところをこのテーマで一つ書けないかなと、勉強しつつまとめて形にしようと試みています。学びとか学習論は、いろいろな分野たとえば認知科学や人工知能の分野とも関わりますのでその辺りも参考にしつつ、私は人類学が専門なので、人類学の先行研究を指針に人類学的なところから取り組みたいと、漠然と考えている段階です。
生活学会のみなさんには、今後も色々とご意見いただけると、嬉しいです。先日の生活学カフェもそうでしたが、私が専門とする領域からは出てこないような意見がいただけるのは、すごく勉強になります。これからもぜひよろしくお願いします。
ありがとうございました。
(インタビュー日 2023年2月24日)
インタビューを終えて(インタビュアーの一言)
大橋:私は中高生時代に運動部に所属していましたが、「体罰」を肯定的に捉えたことはなかったので、「体罰」が合理化される文脈や肯定されるプロセスを丹念に描き出した庄形さんの論文を読み、なるほどこのような解釈のされ方がありえるのかと驚きました。そして同時に、この背景には、家庭内の躾やメディアの影響もあるのではないかという疑問が生まれました。その点をインタビューでお聞きできてよかったです。この研究の次なる展開を期待していたところ、一旦「体罰」からは距離を置いてみるという庄形さんのお答え。離れることで、新たな発見やつながりが生まれるかもしれないと勝手ながら思いました。
土居:庄形さんの論文を初めて目にした時、私が抱いていた「スポーツ人類学」のイメージが大きく崩れました。今回のインタビューで、私自身はイメージの組み立て直しをさせてもらいました。なにしろ私が学部生の頃、初めて直接に対面した人類学者が、アフリカの民族舞踊が専門の先生だったので、それこそ庄形さんのいう「ザ・民族スポーツ」に近い話題ばかりでした。一方で『スクール・ウォーズ』は、それこそ私が中学生時代に、ドンピシャでテレビ放映されていたコンテンツでした。まさか両者を結びつける研究者に巡り合えるとは、これぞ生活学会ならではの面白い出逢いとなりました。