開催日:2020年7月27日(月) 18:30~20:00

聞き手:饗庭伸(東京都立大学)、笠井賢紀(慶応義塾大学)、土居浩(ものつくり大学)
出演:塩月亮子(文化人類学/跡見学園女子大学)、森栗茂一(都市民俗学/神戸学院大学・大阪大学)
記録:末澤瑠里子(東京都立大学饗庭伸研究室)

聞き手:
3月の中ほどから世界的に新型コロナウイルスが大流行しました。「新しい生活様式」という言葉も出てきましたが、新型コロナウイルスは私たちの研究の対象である「生活」を大きく変えてしまいました。日本生活学会の学会員がどのようなことを考えているのか、会員の連続インタビューを企画しました。
第一回目の本日は、文化人類学がご専門の跡見学園女子大学の塩月亮子さんと、都市民俗学がご専門の神戸学院大学、大阪大学の森栗茂一さんです。聞き手は生活学会の情報委員会が担当します。
まず、お二人から、ご自身のご専門について教えてください。

塩月:
私の専門は文化人類学です。その中でも特に宗教人類学の研究をしています。沖縄本島を中心に、そこに見られるシャーマニズムと女性の生活の研究をしてきました。また、勤務先が観光系の学部ということもあり、観光人類学分野にも研究が広がっています。観光の中でもスピリチュアルなものやパワースポットのツアー、あるいはエンディングツアー、人々の宗教観や死生観が反映されるようなツアーを研究しています。

森栗:
私は、もともとは真面目な都市民俗学の研究者でした。いろんな所へ行き、阪神大震災の復興まちづくりにも関わって、「居住」や「生活」の問題を生活学会の中で勉強してきました。さらには土木学に興味を広げ、大学を核とした「人づくりの土木計画」をやっていました。大阪大学は退職しましたが、神戸学院大学にたまたま採用され、なんと驚くことに人文学部の日本史の先生をしています。「僕は研究者か、教育者か」というと、教育者だと改めて思うようになりました。この歳になって改めて、オンライン授業から見えてきたことがいっぱいあります。顔が見えない、声が聞こえない中での教育だからこそ分かる教育の価値もあると思います。新しい教育の展開をしたいと考えています。

聞き手:
お二人からみた生活学とは、どのようなものですか?

塩月:
生活学は、今和次郎の時から生活の変容を研究しており、大正時代に起きた関東大震災以降の人々の急激に変化する生活を見てきましたが、文化人類学も同じように文化とその変容を見ていきます。そこで人々がどのような生活をしているのか、生活様式や思考様式、具体的には衣食住、慣習、信仰等を研究します。生活は時代によって変化、変容しますので、その変容の様相を見る視点が重要になります。加えて、学際的であることも重要です。生活学会には色々な分野の研究者が入っていますが、私が研究しているシャーマニズムを例にとると、社会構造等を明らかにするという文化人類学的視点だけでなく、脳生理学、精神医学、歴史学、文学等の他分野の専門家と協力しないと分からない。また、就業者としてのシャーマンだけでなく、生活者としてのシャーマンを考えないといけない。従って、生活、生活の変容、そして学際的という三つが、自分の専門と生活学との接点です。

森栗:
臨機応変に考えていくことが現象学的な意味で重要です。その現場、その場その中で考えていく、現象のあり方自体に意味があるという考え方です。現象学の中で、生活の場から考えていくことが深い意味があります。柳田國男は、1921-23年、国際連盟の委任統治領の委員としてジュネーブにおりました。その頃は、フランス、ドイツで現象学が流行っていました。しかし数字で説得するものとは異なり、現象学的な理解、納得を、初期の民俗学に導入すると、民俗学が学問として認められなくなりますので、柳田の読書記録の中にも、当時流行っていた現象学の本は読んだことになっていない。ところが、社会科教科書を作るための柳田国男の研究カードの中には、「内省(=同情。心理学の内観introspection と同義)」「了解Verstehen:納得」「綜合Synthesis」という現象学の言葉が散りばめられています。柳田はそのことができずに、民俗学は戦後の社会科教育の中で大きな役割を果たせず、民俗学は研究のための学問になってしまいます。柳田は日本民俗学の退廃を悲しんで亡くなります。
私はもういっぺん「教育」に立ち戻って、ポストコロナの中で役割が果たせたら面白いと考えています。

聞き手:
お二人は新型コロナの自粛期間中にはどう過ごされていましたか?

塩月:
オンライン授業が始まるまでは、その準備に追われていました。「ワークライフバランス」の「ライフ」の中に「ワーク」が入ってきて、切り分けられないような状態でした。また、私には高校生の子どもがいますが、彼にとって私や父親がずっと家にいることは、いつもと違う日常でした。家族で対話をしたり、息子の小さな頃からのアルバムを皆で見たりして、彼にとって生きていていいんだ、と自己肯定ができるようなことをしながら、家族で濃い触れ合いができたと思います。
人間は「移動」し「集う」仲間です。私の場合、「移動」は制限されたけど、小さな単位では集えたということになります。一方で沢山いらっしゃる一人暮らしの方たちが、集えない状態の中でどんな工夫をされたのか、ぜひ聞いてみたいですね。移動ができない、人が自由に集まれないことは自由を奪われることでもあり、人間の尊厳にも関わってくると思います。

森栗:
家では二つのことをやりました。一つはカラス退治です。住んでいる西宮北口は飲み屋が多いんですよ。ところが飲み屋が全部閉店してしまい、ゴミがないため、カラスが我々の住居のあたりによってくるわけです。「カラスイケイケ」というネットを使って、近所の人と連携してカラス除けをしました。おかげで近所がものすごく仲良くなりました。「井戸端会議」という言葉がございましたが、カラス除けのこれをやった為に、近所の人がゴミ除けネットの近くで会話するようになりました。
二つ目は、ひたすら歩きました。夙川の河口に行ったり、甲子園浜のほうへ行ったり、朝5時くらいから自転車であっちゃこっちゃ。また、とにかくまちを早足で歩きました。歩いてみると面白いんですよ。まちの価値が分かってきますね。私が住んでいる所は、日本ペイントが開発した街並みでちょっと道が狭く、イマイチなんですよ。実は同じ西宮北口でも阪急が開発した甲風園は高級なんですよ。道の幅が広いんです。阪急は偉い。しかも道端にイチョウ等の木を植えている。大きな木が道路の中に両側にバンバンバンバンバンと。さらに門戸荘という北のほうには、綺麗な街並みが残っているんです。植物が道路の両側に生えているとこんなに綺麗なのかと。今まで知らんかったけど、改めて朝5時に歩いてみると、植物が道路の両側に生えているとこんなにええものかと、生きる価値がこんなに違うものかと、自分の生活の場の美しさを発見しました。

設置されたカラスイケイケ

聞き手:
生活学の視点から、これからの生活がどのように変わる、それとも変わっていかないと考えておられますか?

塩月:
森栗さんがお話されたように、身近なものに目を向けることになるでしょう。自分の近所や近くにあるものを、なんて素晴らしいんだろうと発見していく生活になると思いますね。観光学関係では「マイクロツーリズム」などと言われます。私の研究している沖縄などもそうですが、今までは外国の人が沢山訪れて、観光し、お土産を買って帰ってくれればいい、というものでした。けれども遠くに行くことができなくなった今、近所の人が地元に目を向け地元を愛するようになり、共にまちづくりをするような関係になっていくことが望ましいと思います。オンラインを使うなどして、近所の緩やかなネットワークができていくこともあるでしょう。一方で、今はVR技術があるので、近所だけでなく遠くの場所をバーチャルに旅行をした気持ちになることも可能なのではないでしょうか。
また、ある地域に行って実際に対面して触れ合わなければいけないことと、そうではなくてもできることがあると思います。授業も、対面でなくても「オンラインのほうが効率良かった」、「いろんな映像を見せられた」等、プラスもあります。人間の関わり方が、知識の伝達などオンラインでも済むものと、相手の感情から、ノンバーバルなところまで見える、対面でなくてはならないものとに分かれていく世界になるのかなと考えています。対面の価値がクリアに出てくるのかとも思います。例えば柳田國男の『遠野物語』で有名な遠野では、物語を聞かせることが観光になっており、いわゆる「遠野物語の里」が作られています。語り部による語りをオンラインで聞いてもグッとくるのか、囲炉裏を一緒に囲んで話者から話を聞いて、その世界を体験することでしか感動できないのか。両者はどう違うのか。物語を物語る話者、あるいは沖縄なら戦争体験を語る話者がいる。そのような語り部たちとの交流は、今後対面のままなのか、あるいはオンラインになっていくのかが気になるところです。近所の発見は五感を使ってできることだと思いますが、遠くのものはどうするのか、ということです。

遠野の語り部

森栗:
コロナ禍で一番変わった人々は、いつまでたってもデジタルにしなかった大学教員ではないかと思います。自分がこんなにもいっぱい動画を作るとは。恐らく世の中は戻りません。ズバリ、教室で対面で100人、200人のそんな授業をやる必要がありますか?そんなものはデマンドでもええし、べつにオンラインでも十分です。デマンドの部分とオンラインで同時にやる授業、そしてリアルに出会ってグループワークをやる授業、うまく組み合わさった授業を作らなあかんと思いますね。そういうように変わるのかなと思っています。

聞き手:
教育の変わり方は、私たちが試しながらやっているから、実感できていることだと思います。塩月さんが仰ったように、それを、遠野で語っている囲炉裏端のお爺さんが使っちゃっうなんてことが起きているかもしれません。教育の経験をそのまま転用できないかもしれませんが、普通の町場の人たちの暮らしは、オンラインとオフラインを組み合わせることで、どのように変わりつつあり、変わっていくと思われますか。

塩月:
オンラインの面白い特徴があります。皆さん今zoomを見てらっしゃいますが、そこに平等性がある。誰かの画面がすごく大きくなるわけではありません。みんな横並びの四角い枠の中に入っていますよね。一方、コロナ禍で貧困問題が噴出していますし、不平等性や差別が顕著になったとも言われています。けれども、こういうオンラインを使う中で色々な解決方法が見えてくるかもしれません。この画面に入れれば、の話ですが、そこの中ではみんな平等です。学生と授業をオンラインでリアルタイムにやるときも、私も学生も小さい画面、という平等な世界が出現するのではと思っています。

森栗:
リアルで会うことの価値や信頼性が厳しく問われる時代になってくると思います。だって宴会やっちゃいかんって言われているわけですよ。じゃあ会う時はよっぽど覚悟して、よっぽど意味のあることでないと、あかんということですよね。今までは、なんか知らないけど適当に会って仲良く酒飲んだらええんやないか、適当に名刺交換してたらええんやないか、だったかもしれない。だけどこれからは、わざわざ会うということはどういうことやみたいな、リアルに会うことの価値、信頼性が問われる時代になってくると思います。

塩月:
最近シャーマンの人たちが、「沖縄や奄美にいらっしゃい」ということをネットで発信したりしています。最初の段階は電話やオンラインで相談ができる仕組なのですが、最後には「自分の土地に来なさい」、ということをシャーマンたちは言います。実際にクライアント(依頼者)はシャーマンのいるところへ行ってみて「ネットだけで人生相談や占いが済むんじゃないですか?」と聞くと、「その「土地の力」を借りないと、人というのは心が解放されたりパワーをもらえたりしないんだ」ということをシャーマンは言ったりします。土地やローカリティの力がものすごく大事なんだと。入口は対面式であっても、最終的にはシャーマンが生きてきた場所などを含むバックグラウンドを、クライアントに体験させる。沖縄のシャーマンは東京などに来るのではなく、「自分たちの土地(沖縄)に来なさい」ってクライアントに言う。そこが一つヒントになるのかなと思っています。これからの生活はすべてオンライン化すればよいとか、自分の身近な所だけの訪問で済むのかというとそうではなく、やはりコロナ禍がおさまったら、遠くに行き、その土地を踏んでくる、その土地を体現する地元の人に会うという生活は大事だと考えます。

沖縄における「土地の力」の例:アシムイ御嶽を含む大石林山の看板

森栗:
「土地の力」は重要ですね。軸、歴史の深みからしっかりと地域を考え、地域の地理的な知の問題が結構深い。大学教育もきっと「土地の力」が問われてくる。私たちの暮らしが単なる個人の生活がどうこうという話ではなく、「地域に生きている」「その土地に生きている」「歴史の深みの中で自分たちが生きている」等の相互的な深みの中での、「私たちの暮らし」を考えていく、考えざるを得ない、そういった世の中になってきよるんやろうなあと思っています。

聞き手:
新型コロナ時代の新しい調査や研究或いは実践のアイデアを教えてください。

塩月:
まず「こんな新しい研究をしましょう」という前に、少しお話をしたいのが、コロナ禍におけるフィールドワークについてです。フィールドワークは文化人類学の重要な手法なので、コロナ禍で出かけられずに困ったと思いました。しかし、考えてみれば私が子どもを産んだばかりの時はやはり出られなかったんですね。フィールドワークに行けない中でどう研究をしていくのか。その時に考えた方法は、表象文化の世界を研究することでした。すなわち、文学や映画に現れるシャーマンとそれを取り巻く世界、そしてインターネットにもみられるシャーマニズムの調査研究ですね。ブログに書き込むシャーマニズムに興味がある人やシャーマン自身、あるいはシャーマンになりかけの人などにより、一つの共同体がネットの中にできていました。従来のフィールドワークで得た資料ではないけれど、ネットの世界にはたくさん見るべきものが転がっており、それを調査対象にできました。表象文化を研究することで、実際に会って対面で話を聞いたシャーマンの人たちの動きや思考などを考える大きなヒントになったんですよ。シャーマンたちが重んじているものや根っこ、プライドがどういう所に表れるのか、シャーマンたちはそれをどう表現しているのか。こういうことで研究の工夫はできると思います。

聞き手:
具体的にはどういうテーマが考えられますか。

塩月:
個人的には、やはりシャーマンや語り部など、「土地の力」を伝えたり、継承したり、体現したりする人が気になります。その地域の文化、歴史、社会の中で、自分の世界観を育て上げて、それをみんなに伝えている人、という風に言えます。そういう「土地の力」を体現しているかたに、対面でお話をすることの意味を聞きたいと思います。
現在は言うまでもなく、コロナ禍により色んなことが変化してきています。語り部やシャーマンの所へ実際に訪れる人は減っているでしょう。なかでも観光客など地元ではない外からの人の訪問は確実に減っている。沖縄の戦争の語り部の話を聞きに、修学旅行生が行かないような状態になっている。しかし、そのような変化にはマイナス面ばかりではなく、プラス面もあるのではと思います。なぜなら人々の知恵、工夫というものは危機の時代にこそ生まれてくるものだからです。人は生きていくのに不自由な場所であっても、創意工夫で対応している。沖縄ではお祭りなどの最後の締めに、「カチャーシー」を踊るのですが、それも密になるからしてはダメ、などと言われている。それに対し人々は、カチャーシーを座ったったまま手だけで踊るなど、工夫を凝らすようになった。不自由ななかでの人々のそのような知恵の部分を見ていきたいです。それを生活学がやっているように、一つの視点ではなく、複眼的に見ていく。学際的という話を最初にしましたが、色んな分野の人たちが集まっている学会ですから、そのことを活かし、変化に対応する人々の工夫を皆で研究していければと思っております。

聞き手:
森栗さんはいかがですか?

森栗:
教育に目覚めた森栗です。私は兵庫県に根を下ろして、大学教育及び高等学校の教育の連携を深めていきたいと思います。その教育は、様々な体験を子どもたちにさせていくというものです。知識と思考力と体験力と技能です。地域の「土地の力」を自分たちで探求し、それを表現していく。コロナになる前から議論にあった「地域探求」です。オンラインになると大学と高校の連携がしやすいですね。いちいちわざわざ行って、出張授業をしなくてもしょっちゅう議論ができる。新しい高大接続のあり方を探究し、PBLを含んだ教育を展開し、大学教育を変えることができたら。その時に生活に根差した、当事者性の中から考えていくことの価値を提示できたら面白いと考えています。

聞き手:
柳田國男が最後に民俗学がアカデミズムになりすぎた、と嘆いたわけですが、その話と教育の転換の話はどういう風な関係にあるのですか。

森栗:
柳田がしたかったことは、社会を賢くすることです。戦後に一般社会科、つまり地歴や経済等ではなく、文化に根差した自分たちの生き方を伝えるという、一般社会科を展開したかった。ところが、日本民俗学会は、歴史のネタとしての民俗学を中心に学術研究をしていく。柳田が民俗学の成果を一般社会科に生かそうと議論したときに誰もついてこなかった。そういう新しい研究をしてほしいと柳田はジュネーブでとったカードを千葉徳爾に渡すんです。でも千葉はできない、とお断りするんです。柳田が目指した世界はできず、柳田はがっかりして亡くなっていくんです。民俗学は「人々を賢くする」ことに貢献できず、結局二流の学術研究に位置付けられるわけです。「歴史学に比べれば論証は簡単でしょう」、「本当のことかよく分かんないような研究でしょ」、「都市計画学からみれば、何か話しているだけ」、という感じです。本来やるべきことは民俗学の中にあって、民俗学ができひんことを生活学がやらなあかんのかなと僕は思っているんですね。一気にはできませんが、私は教育の中でできることがあるん違うかな、と思っています。

聞き手:
民俗学と生活学の違いはどこにあるのですか?

森栗:
民俗学は色々縛りがある。論文書かんとあかんし、論証せなあかんし、守らなあかんものがあるわけですよ。生活学というのはもっと自由に色んな議論ができて、それを認めていく、そういう形の中でできることがいっぱいある。
いずれにせよ、「生活」ということの言葉の意味、深みをもっともっと考えなあかんと思います。現象学に「生の哲学」という言葉がありますが、原文は「生活の哲学」です。現象学と生活はダイレクトに結びつく。医学でも「Narrative-based Medicine」もあれば「Evidence-based Medicine」もあるわけです。Evidence-basedでちゃんと原因が分かるのは8割くらいです。残りはもっと丁寧な問診をして総合的に考える中で原因を究明していく。千葉大学附属病院の総合診療科でそれを実践しています。残りの分からない2割のうちの、60%は丁寧な問診で分かるそうです。これは生活学ではないかと思っています。生活学もそれぞれの自分の研究の中でものを考えているようでは本当の生活学にはならへんちゃうか。本当の生活学をやることをしっかり考えなあかん時期に来ているんじゃないかな、と私は思います。ちょっとアナーキーですけどね。

聞き手:
オンラインでオフラインでやってきたことを置き換える実践はたくさんあると思うのですが、「置き換える」ではなく、なにかオンラインだからこそ価値創造されるというようなことがないのかなと思います。遠野の事例を聞きながら、どういうことがあるのかなという風に考えていました。今日の議論で出てきました「土地の力」や「体験の教育」といったものはオフラインの力が大きいと思います。「オンラインだからこそできるんだ。」というものが何かありますか。
もう一つは、オンラインの経験はオフラインの延長線上にあるので、もともとオフラインで関係性が構築されている人はどうにかサバイブできるんですが、そうでない時にちょっとしんどいなと思います。「土地の力」も、例えば大学の新入生や新任教員のかたというのは、今まで新入生歓迎会があるとか、夏のお祭りがあるとか、様々な実際に集まる場がきっかけとなって、関係性が構築されて、徐々に蓄積されていったと思います。その第一歩がないので、「土地の力」を活かすのが難しいなと思って聞いていました。

塩月:
オフラインの延長線上としてのオンラインではなく、新しい価値観の創造ということだと大変難しいとは思います。新入生のことも皆さん悩んでいると思います。今ある手段を使って、全く今までと違うものを創造していく、ということを考えると、何だったら人は繋がりやすいのかを明らかにしていく必要があると思います。例えば音楽、音だったら共有できるのではないでしょうか。集団が関わりや繋がりを持てるように、そこに自分のアイデンティティや居場所を見出せるようにするにはどうしたらよいのか。どのようなものを構築することが人々を幸せにするのか。オンラインを使いながら考えていかないといけないと思います。

森栗:
ゼロからのオンラインでちょっと成功したことがあります。1年生、18歳、19歳2年生の16人のゼミ二つを持っています。全員全部出席で、一人も取りこぼしていません。それは何故かというと、目的の共有を明確にするということです。体を張った表現を使うなら、僕は一人も落第させない。授業に来なかったらあの子はどうしている。こうしているといいまくる。私の生き方とか私の生活を示すと「意外と伝わるな」と思っています。ゼロからのオンラインは難しいけれど、生活、身体性、生き方を出すということで、信頼性をオンラインでも作ることができる。その上でオフラインで出会ったときにさらに違う信頼ができるんちゃうかな、と思っています。高校の教員に初めてなった24歳の時のような若々しい気持ちです。学生と会えることがとても嬉しいです。「嬉しい」といいまくるんですよね。学生たちはちゃんと答えてくれます。
もう一つは、大阪大学にいた時は、大学の先生同士はお互いに敬遠する傾向がある。ところが、zoomの勉強会というものがあり、その勉強会にオンラインで参加した。きっとリアルに会っていたら誤解が先に立つが、オンラインだからつながる。お互い一からちゃんと勉強しようという目的がある中では支えあっている。だからオンラインだから難しい、ゼロからだから難しいというわけでもなくて、その中での生活、身体性の出し方や自分の個性の打ち出し方、「土地の力」も、打ち出しの工夫するとうまくいくかもしれない。動画の力もすごいですよ。これからの博物館にとって、動画を作って表現することが大きな意味を持ってくるかもしれません。そういったものを、私たちが工夫する力のほうが足らんのちゃうか。そうした時に、当事者性や生き方、生活ということを、先ほどのカラス除けのような話が重要になってくるとちゃうかな、と思っています。

聞き手:
ありがとうございます。これで終わりたいと思います。塩月さん、森栗さんありがとうございました。